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NHK朝ドラ「虎に翼」第69回の寅子の発言より・・・。

どうもsnsなどで、寅子の発言が物議をかもしているようである。
その事実を知った後で、私は番組を観た。

あああ、そうだよね、と思った。
桂場が「ガキ!」と叫ぶ気持ちもわかる。
何も退任の日にそれを言わなくても、もう少し我慢しろという気持ちもわかる。
でも、寅子は真剣だったのだ。
自分一人のことなら我慢もできよう・・・。
という考え方はいかにもエリートらしい考え方だという意見があって、自分個人の気持ちから発言しなければならないという表現を、これまた裁判官の夫からのDV被害者になり、離婚後、子供を抱えて、育てるために弁護士になった先生の著作で読んだ。
法律を専門とする人の考え方は、私たちなど到底及ぶことのできない精緻な論理で訴えてくる。
私はエリートには程遠いが、それでも、何度か職場で考えたことがある。

私一人のことなら我慢もするだろう。でも、ほかの人も困っているから動こう。

これはちょっとおかしい。論理のすり替えであることも今ならわかる。
自分が嫌だから、自分にとって不当だから、動くなり発言するべきである。

でも、女性の弁護士が必要であり、女性や弱者への思いから、明律大学女子部に誘った穂高教授が、その理想を自らも正しいものとして信じて走ってきた寅子にとって、自分がほぼ一人だけその道に残れたと思っている寅子にとって、志半ばであきらめざるを得なかった学友たちの、無念の思いを抱えて生きてきた寅子にとっては、そして、妊娠した途端、

今の君にとっては立派な母親になることが一番大事・・・。

と言われてしまっては、もうどうすることもできなかったのだと思う。
史実としても、モデルとなった女性の真実は、必ずしも弁護士にならなければとか、結婚生活を否定するものでもなく、当然に女性としてのしあわせを追求することも忘れなかったものだったという。
ただ、ドラマの中の寅子の奮戦を思う度、彼女は十分に、自分の努力だけで今の自分があることを思ってはいないことがわかる。志半ばで諦めた友、そういう手段があるとは知らず、勉強することを思いさえもせずに、あちこちで泣き寝入りしなければならない女性たち。決して自己をエリートとして位置付けるだけではなくて、当然に法律を、みんなが利益を享受するためのものとしてみんなと共有しようと懸命である。

地方に来たからなお思うのかもしれないが、自分の受けた教育を自分のためだけのものとし、自分の仕事の対象を、幾分エリートとしての自分と対立する存在として見ている人もたくさん見てきた。いわば自分の立ち位置に酔っている人。
名士の奥さんが、名誉職として与えられ、話してみても何にも解決にならないことを言い、時には目の前にいる人がもっと混乱するようにもっていく人も存在する。もちろん人間相手だから相性はあるだろうが、たいていにおいて弱くなっているときに出会う人がそれでは世の中何を信じていいのかわからないだろう。

地方は都会の十年は遅くいろいろな波がやってくるという。
本当かどうかはもう長らく都会で住んでいないので、正直わからない。
それでも世の中はものすごい勢いで変化している。
大体においてNHKの朝ドラで、法律の世界でいわば男性社会に身を投じ、何があっても突き進んでいく女性を、男性の古臭い既得権益を絶対に手放そうとしない(そういう意識があるのではないにせよ。)世界において、まあ言ってみれば先駆者として突っ走っていく、いわば男性社会に切り込んでいくような、世の中に多大な影響を与えそうな作品を放送するということ自体が画期的である。

それも時代の流れを背景に、細かく心理描写をし、その精神や考え方を上手に描いている。

私は、祝賀会の席で、いきなり涙を流した寅子の気持ちがよくわかる。
それは妊娠して激務の中で倒れ、弁護士を辞めることになったときの苦い思いまでさかのぼる思いだったろう。

穂高教授の言葉を信じて走ってきた。
自分だけではない仲間がいた。
桂場は、穂高の意見は理想論過ぎて、現実が追い着いていないと現実を見ていて、寅子に対しても理解を示しながら現実をきちんと伝える人物である。
私は桂場に好感を持っている。
世の中はそう容易には変わらない。
それを変えようとするとき、一個人としてどれだけ傷つき、どれだけ大変な思いをしようと、それに報いる結果が出るとは限らない。
というより結果が出ない方が可能性としては大きい。
それでもその理想を掲げて、呼びかける人間もいる。
呼びかけたなら、責任をある程度は持ってほしい。

大人としての穂高の感想かもしれない。
尊属殺が違憲となるのはまだ先。
1973年に尊属殺重罰規定違憲判決が初めて出された。
そして1995年、刑法200条が削除された。
これは息子が生まれた年。阪神大震災が起こった年であり、私にとってはついこの間である。
私の中学時代にはもう、この、尊属殺人が重い罰を受けるのは儒教の影響を受けているのであろうし、いずれは削除されるだろうという話を聞いていた。
このことについても自分は何もできなかった。雨だれの一滴だったのではないか・・・?と言っている。
これには腹が立って仕方がない、悔し涙を流す寅子の気持ちはよくわかる。
自分は言い続ける。ちゃんと考えて発言し続ける。
それを雨だれの一滴と言われては、かつて、後輩が続くから君はその歴史を変える雨だれの一滴になったと言われた寅子にとってはもう腹が立って、

私は謝りませんからね!

と言ってのけてしまう気持ちがよくわかる。

女性が社会で働くとき、おそらくは最も大変になるのは、男性の意識である。
私など物の数には入らないが、でも物の数に入らないからこそ言えることもあると思うが、初任の学校で、文化祭の後、年配の先生に、まだみんなが片付けていた時に、

疲れたやろうから、早く帰ってお休み・・・。

と労われたときに、寅子ではないが、

はて?

と思ってしまったことを思い出す。

女性の先生も帰らせてもらおう・・・。

とおっしゃったことがあり、これも、

はて?

であった。

どちらも親しい先生であった。
でも働いていて、女性だから早く帰る、とか、早く帰らせてもらうという発想が私にはなかった。
父親世代とは言え、私の父ではないし、先輩もいつも私の仕事を買ってくださって、

ずっと一緒に仕事をしたかった。

と言ってくださっていたけれど、なんか違うと思った。

女性と男性の体力の違いや、生理の時期の辛さ、ホルモンバランスなど、それは当然配慮してしかるべきである。
高校教諭は、未来の大人を育てている。
今目の前にいる私たちが粗末に扱われて、未来の大人が夢を持てるわけがない。
教諭になりたくないモデルになどなりたくはない。
それでも、まだまだ女性が働くことに理解の薄かった時代に、認められるにはそこを理解されるにはしっかり働かなくてはならないと思っていた。

とはいえ、私は思い詰める質なので、とうに、この仕事は結婚したら辞めなくてはならないと思い、だから結婚か仕事かの選択が迫られることをどこかで感じていた。
それを発言すると、違うと言われることを知ってはいたが、それでも、現実はそうだということも吞み込んでいた。
もちろん結婚相手によってはそうでもないかもしれない。
でも、当時の私は、一個人よりも、その仕事そのものが大事だったし、そのことが大きく影響するわけではない仕事をしていても、男女雇用機会三期生だという思いはどこかにあった。

だから桂場の言っていることの意味が、私にはよくわかる。
穂高先生は理想を追求しすぎる。
今のイクメンという表現についての議論にもそれを感じる。
育児を両性でやっていこうという意識を持つには、まずは手を出すことから始めなければわからない。育児を女の仕事だと言ってのける人が大半だった時代に、いきなりそれを突き付けてもわからない人が多すぎると思っている。
過程として、やっている俺はまだ進歩的と思う人がいても、私はそんなものだと思う。おかしさというのはちょっとずつ実感を伴っていなければわからない、腹落ちしないのだと思うのである。

目の前の将来の社会を担っていく若者たちにでさえ、

ああ、男尊女卑的傾向やなあ・・・。

と感じるところがある。
ところは地方。長男の力がまだ強い面がたくさんある。
私は、○○の、ザ・長男の場合、やはり付き合い方に気を付ける。
プライド半端なく、立ててもらって当然と思っている節のある生徒、それが言動の端々に見える生徒がいる。

男性の値打ちって、そういうところにあるのではないと思うけどなあ。

などと思いつつ。

両性が、互いを尊敬するためには何が必要なのだろうか?
こんなことを書いている私は、それでも大和撫子信奉派でもある。
決して男性に都合の良い存在としてではなくて、私は賢い大和撫子が大好きである。
それぞれに国民性があり、歴史的に脈々と続いてきた性質というものがあり、独特の心性というものがある。
そこまでを否定する気は毛頭ない。
でも、大和撫子があるなら、当然日本男児もあるはずである。
ただ、大和魂をもつ日本男児や大和撫子の議論と、両性の平等や基本的人権の尊重や、法の下の平等というのはまた次元の違う話である。

だからこそ穂高は言う。
法律に道徳が入り込んではいけない。

と。
道徳はある意味人に強制力があってもいいかもしれない。
人というのはこうあるべきだ、とか賢い人というのはどういうものか?など。
ただ、生き方というのは、公共の福祉に反しない限り、自由なはずである。
つまりは人に迷惑をかけない限り。
この考え方によって、私は教育の世界にいても、大変に助かったことがある。勝手に利益衡量をし、

生徒に、○○したらどうなる?△△したらどうなる?
だとしたら、○○のほうが生徒にとっていいな。

と考えると結果が出てくる。
これは仕事にも使える考え方である。
しかし、勝手に人間関係の中で言うならいざ知らず、仕事の現場にまで女らしさとか、それも勝手に作り上げた女らしさを求めるとか、大体においてそういうことを言う人は男らしくないわけであるけれど、男らしさとかを求めるというのは違う。それは好きな人に勝手に思っておけばいい程度のことである。

そういう意味で、

今の君にとっては立派な母親になるというのが一番の仕事。

と断定するところが、穂高の、自分でも言っていた「古い人間」ということになるのだろう。

人間の考え方はなかなか変わらない。
考え方が変わったとしても、感情はもっと変わらない。
もちろん対応策として、男性には○○、女性には△△すればうまくいくな、くらいの戦法は使ってもいいだろう。
でも法律は違う。

昨日、番組を観て、道徳と法律は違う、という穂高の意見には目から鱗であった。言いたいことをこれほど明確に言ってもらって、いわば言葉で定義してもらって、何とも嬉しかった。

かつて職員室ではスカートを履かなあかん。
女性は職場の花でないと・・・。

と言ってのけた、あまり仕事をしない教師を知っていた。
女性同士がどこかで亀裂の入るかもしれない悪口を言っているのを聞いて、先輩だけれど、この人害悪やわ、と思い、一年間無視した。
こわーい若手だったと思う。
おそらく周りも気づいていただろうが、先に言い出したのはあちらである。
そんなことを言って回る時間があるなら先に仕事しろよ!と思っていた。
それに乗る女性教師もおかしい。

もう男尊女卑の典型であった。
とはいえ・・・。
スカートを履いた方が効果的だと思った私は、スカートを履いていることが多い。
もちろん、その日指導する教科にもよる。
数学や物理だとパンツのほうが乗るが、国語だと絶対的にスカートのほうがいい。恋物語を語るときには、まあ言ってみれば古文の日はスカートにしたい。
それで生徒のやる気が伸ばせるなら、やる。
仕事の上での効率と、人に強制することとの違いはちゃんと持っている。

それから、理事長からのお話として、私学であるから、

男性は紳士として、女性は淑女として生徒に接してください。

これはいただく。当然。
礼儀と、ほかの人への強制は違う。
アドバイスも違うだろう。

それにしても、プライドばかり高くて、仕事をあまりしないあの先輩教師はどうされたのだろうか?(笑)

などと不遜なまま今の年まで教師をしてきた。
全く違う仕事とはいえ、味方だと思っていた、あるいは尊敬に値するべき人だと思っていた人にがっかりしたり、あっち行ってしまわれた経験も少なからずしてきた。寂しい思いもした。
でも、雨だれの一滴かもしれないけれど、少しずつ世の中が変わっていて、よりよい世界が現実のものとなるよう、努力してきたという思いだけはある。

まだまだ誰かに伝えるには明確になっていない思いもあるだろう。
それを明確にしつつ、互いにしあわせになれるよう努力していけるようになりたいものだ。

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