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なぜか思い切り生きてる日々(笑)

かつてどうしようもない思いで歩いていた道。
もう私の人生終わってしまったわ・・・。
とわずか26歳になったばかりで思い詰めながら、涙を浮かべて歩いていた道を、最近はよく車でサーッと走り抜ける。

もっともっと夫を信じていたし、その家族も思いやりがあるだろうと思っていた。
が義妹と比較されて、それも足を引っ張られてばかりで成長しているのかどうかもわからない。とにかく自分の娘の承認欲求ばかりが強くて、誰のことも認められない人の中にいた。
身内びいきもここまで来るか?という家。
お腹の子がいなければ帰るのに・・・、と思っていた。

それが○○年たった今、運転免許を持ってきていないと言い募られた私は、車を乗り回して、おまけに故郷大阪の7~8車線の広い道路をぶっ飛ばすようになってしまった。(笑)
これって一種の凱旋ではないか!?ふふふ。

今度は首都高走ってみせる!


転んでもただでは起きない私。
転んだところからさんざん学ばせていただくわよ。当たり前よ。
いやいや転んでもないけど。(笑)

おかげで、女らしい生き方をちっとも求めていなくて、結婚も、父の、

そんなに縁をぶちぶち切ってたらあかん。

の一言で決まったようなものだった。
そもそも愛していなかったのだろう。
だって、夫と付き合いながら、公認でボーイフレンドと遊んでいたし、それを言ったら生徒たちはもれなく二股だとか言って非難するけど、共学の大学の人間なんて、そんなものじゃないの!?
だって、転勤することはわかっていたが、地方の長男だし、それよりも何よりも教師をやめなければならなかったし、いい条件なんて何一つなかった。
それを熱烈歓迎して、引っ張ってきた人は、ザ・地方の長男!であった。
釣った魚に餌をやる気は毛頭ない。そう、

ない!


実家に帰ろうにも、怖ーい父が待っている。
まあ、無理筋やな。
ということはわかっていた。
結構一時代前の結婚のようである。(笑)
私のような、どうも結婚に夢などもたず、仕事をしたい人間にはおかしな話だった。
でも、なぜか、前日から泊まっていたホテルの最上階のレストランで食事を摂りながら、結婚式の朝、大きな窓から、眼下に広がる町の鈍色の瓦を見て、

まあ、ここに来ることになってたんだなあ・・・。

と思うくらい冷静に客観的に考えていた。
何か意味があるんだろう。ここに来る意味。

その思いが実現したかのように、その窓から眺めた辺りで私は開業した。
思えば思い出のある通りで。
子育てもしたし、生活もしたし、思い出もたくさんある。


この土地で何かあると、○○の人はよそ者を受け付けないからと言って、当然被害者のように語られる。

姑が、舅の長姉と話していて、

あんたんとこの姉ちゃん、どうけ?

と聞かれたから、

いやあ、なかなかやわ。

と言うといた。と言われ、どこに慣れていないという側面があるのか?と思っていた。
慣れていようが慣れていなかろうが、できていないということにならねばならない都会から来た嫁である。(笑)

人間関係を作ってきた。

娘と息子の通っていた小学校の校長先生が転任されるときに、こともあろうに、

あんたにここ任せたよ。

とまで言われた。
任される筋合いはどこにもない。だって、職員じゃないし。
ほかの高校に勤めてはいたけど。

で、慣れてないって?なかなかやわ、って。

だったら、都会の嫁に全部やってもらうんじゃなくて、自分でやればいいじゃない。
旦那さんのお葬式。
お食事一つ采配できず、何を着ていなければならないかということもわかっておらず、ちょっと言っただけで、その場で地団太踏んで(人が地団太踏むところを初めて実際に見た。)、

そんなこと言わんといてー!


と喚いていた。
ちゃんとそこの土地に生まれ育ったのなら、ちゃんとやればいい。それを人がやったからと言って、顔をつぶされたという方がおかしい。
私だって、しっかりしたお姑さんに指示されて、言われたことだけやっていられたらどれだけ楽かしれない。
生意気だというそしりを受けるリスクも負いながら、必死で乗り越えていた。
そんなとき、助けてくれたのは娘である。
誰にも言えなかったから、ちょっとしんどいときには娘にぶつけた。

ごめんね。ママ、今誰にもぶつけられなくて。


と言ったら、

ああ、役に立ってるならいいけど?


と言ってくれた。
こういうとき、わが娘の出来の良さに感心する。
私の娘なのに、ちょっと出来が違うと思わされる。

かつてもう相当に学校生活も大変そうだったころ、私がママ友のことをぶちぶち言っていたら(これは夫が解決するべき問題だった。部下の奥さんだったし。)、

私も学校で嫌味言われることあるよ。でもね。生きていくにはそういうことも大事なことだと思うんだよ。


大人顔負けで言われた。

息子がやんちゃしてくれて、

ちょっとはママの立場も考えてよー。


とみんなの前で困った顔ができたのは救いだった。
この子は何気にその場を明るくしてくれる子である。

思えば周りの人がしんどい分、子どもたちが助けてくれた。
本当に。
まだ自分の手の中にいる頃のことだったから、その後は結構社会に少しずつ出ていく年齢になるわけで、そこで生かしたこともたくさんあるにはあるのだろうけれど、家の中で、とんでもなく助けて来てくれた。

それぞれどんな親になるのだろうか?
子どもたちのところには、子どもたちをまた助けてくれるような子どもが生まれてくるのかな?
伴侶をあてにするより先に子どもを思うなんてどうかしてる。(笑)

母が、私が里帰り出産で実家に帰った後で、婚家に帰るときに、まだ赤ん坊の娘に言い聞かせていた。

ちゃんと眠ってあげてね。ママをちょっとでも助けてあげて。

と。

息子の時は、関空で言ってくれた。

なんや、今回は、〇ちゃん(息子)がいるから、赤ちゃんやのに、男の子や言うだけで、なんや安心やわ。

そうそう、この男は助けてくれた。たくさん。
私の行くところ行くところで先に人間関係を作っておいてくれた。
おかげで○○君のお母さんと言うだけで有名人になってしまったこともあるくらい。
つまりはやんちゃであった。
が、何も考えないやんちゃではなくて、小さい頭でいつも何かを考えていた。

昔の上司に話したときに言われた。

そういう人はね、自分を立てて立てて立て通して、人を恨んで恨んで、下の世話をされるようになってもその相手に罵声を浴びせて死んでいくんだよ。

とまでおっしゃった。
だからどうしろとまではおっしゃらなかったけど。
結構若い時分に職場でもそうそうできないらしいことをやっていたから、何をするかは自分で考えるだろうと思っておられたのかもしれない。

賢くて誠実で、何で見てもいないのに、人の悪いことしか言わないことを知っておられるのかが不思議だった。
ご近所のこと、親戚のこと、娘の婚家のこと、私のことは当然だろうけれど、とにかく周りの誰のことも褒めるのを聞いたことがない。
自分の値打ちを上げてくれるような人は善。それ以外の人は悪のようだ。
そういう人を相手にして疲弊するのもアホらしい。


良い嫁になるよう、また少しでも心が通じるようにとあれこれしてきた。
職場の近くの病院に入院されたときには、毎日仕事帰りに立ち寄った。
もちろん単身赴任中のことだから、子どもたちが待っていて、食事を作らなければならなかったから、毎日そうそう長くもいなかった。
でも毎日通った。

母もお見舞いに来てくれた。

テレビで雅子様が映ってらした。

雅子さんもねえ・・・。

とため息。
つまりはバリキャリ女は(私はバリキャリにしてもらえる理由などない。専業主婦に毛が生えたほどの仕事をし、専業主婦ほど家のことなどできていなかったし。)、家には馴染まなくて使えないんですよねえ。

というパフォーマンス。(笑)
雅子様がまだお加減が悪くなられ始めたころのことである。

だからそんなに優秀でも、

美女でもないって!


そしたら帰りがけに、病院の入り口まで来て、

あ、ちょっと・・・。ああ、まあいいわ・・・。

と手をサラッと挙げて、言うので、

お義母さん、何ですか?

と聞くと、

ああ、たまにはお父さんとこ行ってあげて。

つまりは母の前で、

あなたの娘が舅のところに行かないんですよ。

と言いたいだけ。

このパフォーマンス力は見習いたいが、それが伝わることに成功したのを見たことがない。おそらくは、舅や夫は結構やられていたことだろう。(笑)

挙句の果てに、舅と夫に対して、

①来ても10分ほどしかおらんかった。
②嫁にも見えんかった。
③義理で来ていた。

と言ったらしい。
夫が、

お前、行っても10分ほどしかおらんかったんやってな。嫁にも見えんかったらしいやないか?それに義理で行ってたんやってな。

と言うのを聞いて、この人はアホやねんなとつくづく思った。
大学の先輩(あまり認めたくない?(笑))だからあまり言わないようにしようとしてきたが、それにしても、こんな簡単な詭弁に騙されるなんて。(笑)

①子どもたちが待っているのに、それ以上おれるかいな。
②そもそも学校で授業してきて、スーツがジャケット姿が多くて、しかも言葉が標準語ときたら、誰かいな?となっても仕方がない。そもそも職場からすっ飛んできて、モードは切り替えていられなかったのではないか?
③義理でって、よほど仲の良い嫁姑でなくて、なんで義理でなく来れます?そんなすごい嫁がいてたらお目にかかってみたいわ!

というわけで、美女である姑の言葉を全部信じていたらしい舅と夫に呆れた。笑えるくらい。ホホホ。

やはり傾国の美女というのは存在するのか!?

おまけに私は嫌味にならない程度のかわいらしい下着も用意して持って行った。
これ以上何ができると言うねんな!

その後、義妹が婚家でよくやっていると言って自慢していたらしい。(笑)


なんだか書いてみて、別に恨みつらみというよりも、もう笑えて来ている。
真剣に相手する方がよっぽどおかしい。

先輩の先生の、あの発言が私を救ってくれた。


私は介護する覚悟もあったけど、まあね。
される気もなかったろうからそれでいいのではないか?
それぞれの母たちはそれぞれの形で老後を過ごしている。
なぜに私の母が私のそばで安穏と(いやわからんで?)過ごしているのだろうか?
こちらはこちらであれこれあるのではあるが。

そう言えば、お姑さんが入院していた病院のそばにあるカレーうどんで有名なおうどん屋さんに先日行ってきた。

ここやで。お姑さんが、面白いパフォーマンスしてた病院。覚えてる?

と言ったら、母も、

覚えてる、覚えてる。

と笑っていた。
母はその時に、

ややこしい人やなっ!

と怒っていた。(笑)

それにしても、偉大な偉大な雅子様と一緒にしていただいて、これ以上の光栄なことはございません。
ありがとうございまっす!


それから、私は娘にも息子にも彼らの尊属についての悪口は言ったことがない。
自分たちのルーツについてどう思っているのかはわからないが、知らない方がよいことは知らないでよいと思っている。

が、それに騙されていたとしたら、十分に、

アホやな!


とは思うが、それも一種の生存戦略としてはいい。
何も言う必要もない。
それに嫁にはひどい人が孫には優しいならそれでいい。
それにそういうことって、誰かを見る目というのは、説得するものではない。おのずと年を経てわかってくるものである。

まことに人生の機微を教え続けてくれているではないか。

この記事をなぜか書いてしまった。
別に恨むとかおどろおどろしい気持ちなどなかった。
でも、終戦記念日の思い出を書いているうちに、なぜか書いてしまった。
そして、すべてを客観してしまっているということに気付いた。
書きながら笑ってしまっていた。
すべて乗り越えた、ということなのだろうな。
昔のことをいつも思い出して話すほどの時間はないし。

それに、今は楽しいってことに気付いてしまった。(笑)

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