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NOTEに書くことで気づかされたこと

 一昨年から、父の闘病があり、父の死があり、今まで以上に、実家のある大阪との密度の濃いやり取りがありました。

その中で、私の中に、なんで?なんで?ということがあり、母にぶつけてきました。長年、母に謝ってほしい、と思っていたことがあって、私は、なんでそのことにそんなにこだわるのか、自問自答していました。学校にも行きました。新卒ですぐ、希望していた仕事に就きました。結婚をし、子どもを持ち、程よく仕事に復帰し、自立したいと思って開業もしました。妊娠、出産に関して、人並なつらい想いすらしませんでした。仕事は、まあ、人並にはありましたが、正直、コケた、というほどの失敗があったと言い切ることはできません。

ある人から言われました。「僕らから見たら、先生、めちゃくちゃ経歴がきれいねんで。わかってる?」と。プライベートでのことを少々言っても、彼は認めてもくれませんでした。

別段、不満を言う要素など、ないのです。ありがたみがわかっていないだけです。こんなこと書いたら、少々、気を悪くされる方もいらっしゃるかもしれません。ただ、開業したのだから、来年、自分の教室があるかどうかなんて、わからないのです。最近、実際、県内の塾が、つぶれましたし。

葛藤がありました。新卒で教員をしていたころからです。確かに男女雇用均等法が施行されて三期目。私たち世代の女性は、まだ決まったルートを歩いていたわけではありません。手探りで、仕事と結婚をどう両立しようか?と思っていた人が多かったと思います。

父は、女性らしく生きることを求めていました。実は、これに、私は反対ではないのです。女性の賢さなんて、知性だけで表せられるものではないと思います。もっと違う要素があるような・・・。男女平等とかいう話ではありません。尊厳で言えば、そんなもの、平等に決まってます。むしろ、中国の思想家である老子なら、きっと「女性の方が偉大に決まってる!」とおっしゃりそうです。

一方、母は、絶対に認めませんが、どうも自分がやりたかった、「女性の自立」を私にさせたかったように思えてならないのです。嫁に来るときも、「そんなとこ行ったら、あなたの可能性が・・・。」などと言っていました。いやいや、今となっては、地方だから、私という人間の個性もちょっと際立って見えるし、それが仕事にも生きているようですが、大阪なら、何のことない教室の一つです。幾分変わった・・・。まあ、都会にウチと似た国語の塾はあるそうですが・・・。

私が何かしようとしたら、「あんた、そんなん嫌やろ・・・?」と言うのです。今だってそうです。何か、私が柔らか目のことを言ったら、「そんなんで、あんた、満足できひんと思うわ・・・。」と結局頑張る羽目になってるような・・・。

数年前、私がちょっと極端目な試験を受験しようと思ったときも、親身に反対してくれたのは、やはり、いつもの方でした。

驚かれた様子に、

「意外ですか?」

「いや。」

「びっくり?」

「びっくりでもない。」

「じゃあ、こいつはまた、そんなこと言いだして・・・。ですか?」

「うん、まあ、そうや。」

それから、「別に止めはせんけど、よう考え。面白いでできる勉強やないやろ?」と言われました。さすがに最初の一冊目が怖くて、こんなこと始めていいのか・・・?と思っていましたが、結構仕事とも両立して面白かったのです。思考的には自分に合っていたようでした。半ば呆れながら、しょうないなあ、と思いながら見てくださっていたのだと思います。

そんなとき、私は母に心配してほしかったのだと思います。母は、その大変さも知らずに、「やったらええやん。」と言っていました。私が大変なことに頑張ることに、全然抵抗がなさそうで、しかも試験の直前に、お友達や知り合いとの些細な人間関係の話を相談する有様です。私をいったい、何だと思っているのか・・・?

最近、母は言いました。なんでもできて、私になら、何を言っても許される、と思ってしまっている、と。

私が身内にそんなこと始める人がいたら、止めます。間違いなく子どもたちなら止めるように注意します。身体を壊してほしくないし、なんでわざわざ・・・、と。

私には、それなりの理由がありました。これを持ったら強いな・・・、という。そしたら、最近、それはそれで専門家に任せればいい、と言ってくださる人がいて、その前に、私を止めて、私の怒りを買ってしまった人がいらしたのですが、私をあっさりと諦めさせたのは、全く違う、物理的な問題でした。

昨日、私は、なんで、母に歯向かっていたのかがわかりました。

母と私は、性格が違うのです。私は、あまり目立ちたいわけではありません。むしろ性格的には、二番手でいたい。野球ならキャッチャー。縁の下の力持ち。黒子。秘書役。トップに立ちたいわけではなさそうです。かと言って、家族が頑張るために、というのではなくて、なんだか喜ばせてあげたい、とか、一瞬の喜びや、快さを与えてあげたい。誰かが頑張っていることを喜んで、というより一瞬心のあり通い、みたいなものが好きなのです。

母は、むしろ自分が働いていたときのように、仕事ができる、ということに最高の喜びを感じるタイプなのでしょう。だから、私が、仕事をして、生き生きとしていたら、それで、嬉しかったのだろうと思います。たとえ、ほかにどんな心労があったとしても・・・。

母は、父が亡くなる直前、私にとっては、本当に無神経なことをしました。私が嫌だというのに、それはやめて、と言ったのに、押し通しました。それが、今までの私たちの関係のすべてだなあ、と思ったのです。仕事をしている、だから、そんな些細な感情的なことはさらりと大きな気持ちで流せるだろう・・・。と思ったようです。

私は母が思うより、神経が細かいと思います。仕事で、もっといろんなことを乗り越えてきたり、あるいは、もっと嫌なことをスルーしても、どうしたって、それだけは嫌だ、ということがあります。いまだ、わかってはいないようですが・・・。

少々勉強したから、仕事をしているから、そんなこと、平気だろう、なんて甘えです。人間にとって、嫌なことは嫌です。そういう話がたくさんあって、「快く、そういってくれたから・・・。」とか、「○○やってくれたから・・・。」という言葉に我慢し続けてきたのだなあ、と思います。

率直で、割と表裏なくしゃべっているように思われがちな方だと思います。昔、私の気持ちを察してくれたママ友が、「実は彼女は、ガラスの心を持ってるんだよ。」言って、気遣ってくれていたことをあとで聞きました。それから、「気を遣ってるんだよねー。」と言ってくれて、ちょっぴり嬉しかったのを思い出します。

母は、私が強くないと困ったのでしょう。実際に強いかどうかは別にして、強くないと、自分が困るから、強いことにしたのだと思います。子育てや、仕事が私を強くしてくれたのは、よくわかります。でも、最初から、なんでも乗り越えられるような強さは私にはありませんでした。

遠方に嫁いだ私が、初めて、祖父母に会いに行ったとき、祖父が、怖い顔をして、「はよ、帰り。」と言ったことがありました。なんでそんなこと言うのだろう?と思っていたのですが、祖母は、そのあと、「あの娘は、気のいい顔をして、人に騙されへんか、心配になる・・・。」と漏らしていたそうです。自分も入り婿で、気を遣ってきたのでしょう。私の婚家での立ち位置も想像できたのかもしれません。遠方に来て、それなりの苦労もしました。おとなしそうな人が、実は裏では、強そうに見える人よりも、ずっと強いのだなあ、と実感してしまったこともありました。

そう、母は、私が強くなければ、強いことにしなければ、やってられなかったのだと思います。

昨日、あることをきっかけに、いろいろと気づいてしまったのでした。

まだまだ、あまりはっきり書けないでいます。それでも、昨日、私は、母に気持ちを言いました。実家での価値観からも、婚家で○○です、と言われてきた価値観からも、そろそろ自由になって、自分の考えで、生きてみたいなあ、と思っています。

とりとめのない話です。読んでもらって、ありがとうございます。でも、昨日の自分より、少し自由になっている気がしています。

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