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長い年月の間に、もう身に着いてしまったもの。教師としての言葉。

私は、時折、自分のことを、思ったよりもいいやつじゃん!と思ってしまうことがある。

それは、ふと自分の口から出た言葉からであることが多い。

かつて、新卒で勤めた中高一貫校で、自分にも関わることでの職員会議の折に、自分の負担を減らそうとしてくれている先輩方の前で、別にいい子ぶってのことではなくて、思わず、私がその仕事をすると、○○に迷惑が掛かるんです・・・、と口走ってしまったことがあった。

目の前にはその数日前に、状況を訴えに行った、最高幹部がいらして、どういうタイミングか、全く違う案件から、この状況を打開しようと職員会議が開かれていたのである。
また、もう一方の、仕事が増える原因になっている幹部もいらして、ああ、私は、私という若い娘は、この人たちの都合や状況のひずみなどの中にいるのだなあ・・・、と、ぼうっと思いながら、そして、人間って、結構ご都合主義なんだなあ・・・、と思いながらも、その先にあるのは生徒のことで、その仕事を私がしてしまったら、○○が困るし、ひいては、生徒がしかるべき措置を取られなくなる・・・、と言ってしまったのである。

たかだか24歳だった。しかも結婚は決まっていて、遠方に嫁ぐことになっていた私の立場では、だいたい教諭としてではなく、講師として働いていてもいいだろうに、こともあろうに、この時期を逃したら、教師としての仕事を覚えるときはない、とばかりに必死で仕事をしていた。
きっと周りは、全く違う理由ー例えば、お金であるとか、もしかしたら、出世したいとか(組織的に無理であっただろうけれど。)などと思わていたのかもしれない。ただ、単純に、ひそかに、自分だけが知っている、期限があって、私は仕事を一生懸命にしていたのである。
何か、こう、もっと高次の教育、というものを追究していたような気がする。
おかしなことに、その数日前に訴えた人の前で、私は庇われる形となり、本人は、先日まで悩んでいた、教材研究をもっとしたい・・・、という自分の欲求、そして国語への思いなどどこかに行って、その言葉を発していた。

たぶん、人の思惑などどうでもいいのだと思う。
私は、決してどこかの調和を崩したい人間でも、誰かと自ら進んで対立したり、あるいは誰かが我慢して、自分の利益を追求するような人間ではないと思う。

いや、おもいやり、とか優しさとか責任感、とかいう性質的なことなら、さんざん言われてきたのであるけれども、私は、この、人の思惑などどうでもよくて、自分が追究したいものを、通すことができればいい、みたいなところが意外に嫌いではない。
人に結構気を遣うくせに、まるで、天然であると言わんばかりに、人にこういうことをしたくない、とか、人にこういうことをしたい、という点において、私はあまり人に譲らない強さがある。
仮に自分の立場が少々悪くなっても、目の前にいる生徒のために必死になってしまっていて、結局自分のスキルを上げていたり、生徒はいつの間にか慕ってくれていたり、これは通じるかな?と思って発した言葉が、意外に通じたときに、本当に嬉しくなる。
自分の大事なものだけは、誰にも譲らず大事にしているところ。
別に我を通しているわけでもないのだけれど、どこかにいる、教育ということを行っていくうえで、あるいは人として生きていくうえで、こうでありたい、というところはどこかで譲れないところがある。

流されないのよね、あなたは・・・。
と何度か言われてきた。
芯が強い、とも言われてきた。
まっすぐしているから、生きて行きにくくはある面もあるだろうけれど・・・、とも言われたし、嫁に来たばかりの頃、お義父さんに、
あの娘は、まっすぐしてて、うまいこと言うて、何か買ってもらおうとか、何か自分に良くしてもらおうとか、そういう気持ちの全くない娘や・・・、と言われたそうである。
そんな性格は、まっすぐしていない人にとっては、相当迷惑で、こちらにそんな思いがなくとも、何か意図や計算がある、と取られても仕方がない。本当にそう見える人もいたことだろう。

私は、自分がまっすぐしている、と言われてもわからない。
それは人が評した自分であって、私は私としか付き合いがないから、私以外の人の正直な気持ちなどわからない。ただ経験的に知っただけのことだ。

ただ、件の職員会議でのように、私が、ある瞬間、自分の大事なものを確かめてもいるのだろうけれど、突然に発した言葉から、大事なものが抽出されたときに、我が言葉から、ああ、私って、思っているよりもいいやつかもしれない、と思うことがある。

私なりの分析によると、どうもこいつは、自分にとっては譲れない大事なものを、相当に大事にした結果、それがふと口に出るとき、どうも自分でもびっくりするくらいに、自分の中に相当に大事なものがあり、そのためだったら、結構大変な状況になっても、それはそれで受け入れるほどに大事なものらしく、そのためなら、結構何でもするんだな、と思っている。

強い、とか、責任感、とかいうよりも、優しいとかいうよりも、もっと自分勝手に、大事なものを大事にしているのだと思う。

それが、ある生徒に言わせると、禁欲主義、、という表現になったので、意味を訊ねてみたら、要するに、先生がしたいとか楽しいとか思うことって、全然常識から外れていないから・・・、と言われた。

たぶん、私の大事なものが、倫理的にも常識的にも、良識から外れてはいないということだろう。しかし、長いものには巻かれろ、的な世間から見ると、相当にはた迷惑に違いない。
それは自覚が全くないわけでもないのだけれど、単純に、その場になったら、まるで蛮勇であるかのような勇気を出してしまう。たぶん勇気とかいうものでもなく、もっとシンプルに大事なものを大事にしているのだと思う。
掌中の珠のように。

大事なものを思わず大事にしている自分が、意外に好きなのかもしれないな、というお話でした。

読んでいただいて、ありがとうございました。

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