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思い出の本のあれこれー採用試験と西鶴と秋成と芥川とヘッセ?

家の中をあれこれ片付けていると、当然その対象の中心が私の場合、本になるので、その本を読んでいたときのことをあれこれ思い出してしまう。

教室には嫁入りの時に、家具屋さんに、

本棚は普通旦那さんの方が用意するもんですけどね・・・。

と言われて、買った大きな大きな書棚がある。

母は、そのとき、すかさず、

この子、高校の教師してるのでね・・・。

と言ってくれた。
その家具屋さん、実は、出張の折に、他の先生方、それも男性が多く、当然に一番若いのは私だったのだけれど、そのお店の前を通り、

もう少ししたら、こういうところでたんと(たくさん)揃えんなんでしょ?

と言われた家具屋さんだった。私はまずいところを突かれたようで、

いえ、本棚がほしいですね・・・。

と返しておいた。

嫁入り道具を買わなければならなかった。
本当は、二人で協力して、嫁入りダンスとかではなく、粗末な家具から始まって、自分たちの力であれこれ揃えていくような結婚がしたかった。
最初付き合った人だったら、その後学者になる予定だったから、きっとそういう形になったんだろうな。

でも、何を間違ったか、自分が嫁入りダンスを揃えることになり、どうもその頃、自分の生き方をどこかで否定し、オーソドックスな方に行かなければならないと思い詰めていたような気がする。
先輩の先生は、

タンス入らないから、本棚だけ買って・・・、って言ったんです。

とおっしゃっていた。
そのことがあったので、嫁入りの時には、本棚だけはいいのを買おうと思い詰めていた。

そのとき選んだ書棚は、今教室にある。
チェリー文庫として。
この本棚は、引っ越しの多い私に、ピアノと同様、どこでも着いてきたわけではない。あまりに重く、あまりにデブ?なので、後回しにされ、置き去りにされる。ついでにピアノも最近聞いた話であるけれど、通称「ゾウさん」と呼ばれるタイプらしい。思い切り引っ越し屋さんに嫌われるピアノ。

そしてこのピアノも私のそばにいる。
子どもたちのどちらかが、もしピアノがなくては生きていけないほど好きになってくれたなら、行先に持たせただろうけれど、私のそばにいる。つまりは私しか、いなくてはならないほどには弾かない。

中一の頃はヘッセにハマっていた。新潮文庫の薄い水色のヘッセのシリーズは、大抵持っているほどに読んだ。夏休みには、どうしてだったろう?芥川にハマっていた。芥川はずっと好きで、別にイケメンだからではないけど、あの顔は好みでもある。才走った鋭そうな顔。

その後、芥川の姪(姉の娘)であり、長男比呂志の嫁である、芥川瑠璃子著『影灯籠 芥川家の人々』という作品を読んだ。これはある会合で読むことになった本であり、私が見つけてきた本でもなければ、おそらく見つけることも、自分で読もうと思うこともなかっただろうと思われる。なんて言っていいのかわからないけれど、私の読書の傾向からそう感じた。
その中に登場する芥川の像は、私が思い描いていた像とはずいぶん違った。
才走った天才作家というよりも、とんでもない事件に巻き込まれたり、借金を返すために自死するその朝まで執筆していた、もっと俗世間に生きる、世俗的なことに悩む姿をもっていた。

『歯車』という作品を学生時代に読まされて、それについて語られたとき、

完璧にもう狂ってますよねー。

と言われた通り、精神に異常をきたしていたのだろう。
でも、私には、ある意味金策のため、自分の精神との折り合いを付けながら、いやつけられなかったからこそ自死に至るのであろうが、逆に、健康的に思えるのである。そう、健康的な芥川の姿があったのだ。

家族がどんどん死んでいく。
瑠璃子は、あまりに死に敏感になり、従弟であり、夫の弟と目が合ったときに、ふと、

死ぬのではないか?

と感じたという場面がある。
その直感は、不幸なことに当たるのであるが、この死に見舞われ続ける一族の中で、まるでその生き証人であるからのように、でも、当人にとっては辛い思い出として、語られるのである。この作品との出会いは大きな意味をもっていたので、また書きたい。

全く話は変わるが、就職活動の折、勤務先になった学校以外の高校や中学を受験しに行っていた。ある、決して進学校とは言えず、当時はむしろ問題児が集まっているイメージのある学校を受験しに行った。
友人が合格し、私は不合格だった。その理由になるのかどうか、面接で、私たちは両方とも近世日本文学の大家についての卒論を書いていたのだけれど、そのことが話題になった。

当時、仮名草子を通って、浮世草子、まあ、それは西鶴と言うことになるわけだけれど、そして読み本に辿り着き、私は、上田秋成の『雨月物語』を選んだ。西鶴も好きだった。享楽的な時代背景もあり、当時の大坂の人々の息遣いが感じられ、風物詩を並べるだけなのに、季節感やその場にいるような臨場感を表現することができる。それに、あの、自分の中にも、そして家の子どもたちの中にもある、深刻そうな話をしていても、ふっと最後に、客観的に違う視点をもってきて、ずこっとやる、というか、その価値をどこか真ん中に落ち着かせようとするというか、どこか大阪のDNA的なものを持ってくる。その表現をする、あの天才性には脱帽する。脱帽って、だから天才なわけだけれど。
藤本義一さんだったろうか?
日本の文学は、『源氏物語』の次は、西鶴まで飛ぶ、という指摘に、私は今でも納得してしまうものがある。
その間の作品も素晴らしい。それはわかる。そんなにたくさん読んでいなくてもわかる。
でも、源氏の次は西鶴!というのもわかるのである。

そして、秋成は、同じく大阪町人のである。ただ、博学だった秋成は、宣長と日の神論争をし、敗北し、その後文学にノメることになる。
学生だった頃、なぜか秋成に惹かれ、なんとも言えず博学で、作品中の漢籍などの引用から私は、その学問に憧れた。人間を頭で捉えているというような。
当時の私は頭でっかちだった。その後教育現場に出て、周りのおかげで、実感や直感の大切さを教えていただいたりした。
でも、当時の私は、博識な秋成に憧れた。
だって、西鶴おじさんは(ごめんなさい。偉大な天才をこういう風に読んでしまって。)、俳句を詠んでも、

何言うてはるん~?

やし、いきなり生玉神社で、大矢数をもじって、俳諧大句数と言って、時間内にどれだけ俳句を詠める?とばかりに、その質よりも数で勝負しようとする、ある種の不謹慎さをもって、だんだんと時代の寵児となっていく。
このいい加減さが当時の私には、受け入れがたかった。
友人たちの前では、いかにも西鶴好きそうな顔をしていた。ある日、男子に、

お前は、西鶴みたいな生き方できんから、憧れてやっとるやろ?

と言われたときには、ああバレた・・・、と悲しくなった。

そうそう、私の人生には、このバレた、という表現がどれほど多く出て来ることか?

そろそろ本当の自分の人生、始めてみない?

と今頃言ってもみるのもいいかもしれない。

もう、嘘つくの、やめようよ!

いやいやいや、そういう話ではないって!

というわけで、卒論で秋成をやっていた私は、変なことを言って、つまりは、秋成の荘子の説の引用から、彼の考えを、いや荘子的な相対的にものを考える見方を、教育の現場でも・・・、的なことを言ってしまって、怒られ、その後に面接を受けた友人は、

西鶴は健康的でええなあ・・・。

と言われて採用された。

しばし、彼女からは結構上から目線で語られた。

でも、私はその後採用された学校でそのまま結婚するまでいたが、彼女は、

こんなとこやってられへんわー!

と言って、次の年に公立高校の先生になった。(笑)

今でも西鶴は健康的、秋成はそうでない、と思い出すとき、あの面接を思い出す。
つくづく要領の悪かった私・・・。

この話はつづく、ということにして、今日はこの辺で・・・。

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