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一人の人の癖を乗り越えるときの喜び

正直、どうしても好きになれない人がいました。
もう今まで生きてきて、ここまで、いわゆる大阪弁で言うところの、「かなん人」に出会ったことがない。
というのも、姑やその他仕事の人間関係なら、こちらが何も働きかけなくても、勝手にやってるわ・・・、状態ですが、その相手は、この数か月こちらがあれこれ働きかけなければならない相手です。だから、私がその気持ちを乗り越えなくては仕事にならない。

もう、適当に料金分の仕事をそれこそ事務的にやろうか?と思ったのですが、そもそも信条に合わない。そんなこと、まるで蛇の生殺しみたいな仕事になってしまいます。

どうにも困っていました。
お節介かもしれませんが、私は適当に指導ということができない。できるだけその相手がやる気になるよう、今の状態から120%の力で努力ができるよう働きかけます。
それなのに、どうしても、その相手のためにと思えなかったのです。

人というものはおそらくそういうものだろうに、自分のことしか考えていないように思えるし、ただただ成り上りたいためだけの行動に思えて、私は苦しんでいました。いやいや誰だってそうです。何とか自分の立場を向上させたくて、努力するわけです。ただ、どうもきれいでない。

結構苦しみました。人の失敗を喜んでいるかのようにも思える。できたら人を蹴落としたいかに見える。もうちょっと美しい競争の仕方はないものだろうか・・・?

そんな時に、なぜかふと悟ったのです。
ああ、こんな風に物事が見えているのかもしれないなあ、と。

教育は究極のサービス業です。
ご依頼には忠実に添うようにするのがサービス業の使命です。
その目標に向かって、こうすれば合格に近くなります・・・、ということを示すのも私たちの仕事です。

そのために私は叱りつけたこともあります。
合格するために。
でも、その合格そのものを願えなくなっていた自分に気付いていました。
今まで何度か指導を離れようか?と悩みました。
今までにも辞めていただいたことは何度もありますが、今回は、ご本人が努力されていないわけではないので、根拠などありません。
それは無理な相談でした。

どうしたら全力でその合格に向かって指導できるか?私は結構葛藤しながら毎日を過ごしていました。

ある日、生徒を愛せない先生の悩みを読みました。
今まで、そんなことはありませんでした。
学校の先生にならどう書いてあったのかは忘れましたが、塾の先生なら、それは甘い。好きであろうと嫌いであろうと指導をする。この指導というのは、私の思うのよりも、淡々とやることをやる、ということのようですが、それでも、ああ、それでいいんだな、と思えたのです。

私は人のわがままを聞いても、それに対して自分が動いてあげられるとか、精神的にも許容できれば、どうってことはありません。ただ、そのことがその人にとって正しいことか、相手をダメにすることではないか?と悩みます。
今回も、この子の考え方、これでいいのかな?と悩んでいたのだということに気付きました。

母のこともそうです。
普通に聞いてあげられることなら、聞いてあげてもいいし、そのために行動すること自体は、体力が持つ限り大丈夫なのです。むしろ楽しくなるようにあれこれしてあげたい。
でも、変に心理学などをかじっているため、これは毒親の在り方ではないか?とか、自分とは親としての気構えが違うわ・・・、など咎めてしまったりします。
私は体力も気力も、結構あります。
今までだって、

よくも、あの人の下で働いてきましたね。大変だったでしょう?

という強者を同時に3人にお仕え?してきた、ということもありますし、お姑さんも、世間では、

あんな大変な人と・・・。

と何度か言われたものです。
それはお店の人であったり、親戚であったり、夫の友人であったり、あれこれしていましたが、私は、それはそれとして、勝手に友達を作り、人間関係を作り、仕事を探してきて、つぶれもせずにやり過ごしてきました。

別に相手が強者でも何でもいいのです。
わがままでも何でもいいのです。
私が何かをしたり、こころを配ったりすることが間違っていないのであれば・・・。
何か一つ余分にしてあげることも、それが相手にとって悪いことでなければいくらでも動きます。私の体力がもつ限り。

それと同様、生徒にも、これは正しい在り方だろうか?私が手を差し伸べることがその生徒さんや親御さんにとっていいことになっているのだろうか?と悩んだのです。

塾の先生なら甘い、というのは、ちょっと違う観点からのものでしたが、ああ、そうか、それでいいのか?と思いました。

それに、合格のために、ちゃんと生活指導めいたこともしています。
それでは合格できないよ、というようなことも言っています。

どれだけその生徒さんを叱ったり褒めたり、出会ってからあれこれしてきたことでしょうか?
私が何かを言う度に、その生徒さんは変わって来られました。
まだ幼いなりに私の言うことを受け止めているのでしょう。

受け止め方が真摯になってくるのと同時に、成績もとんでもなく伸びてきました。

思ったのです。
こうして毎年悩みつつ、志望校に合格してもらうためにあれこれ工夫するのだと。
そして生徒さんや親御さんを通して、私自身が成長させてもらっているのだな、と。

母が来て、あれこれしたいことを言ってくれるので、私の方も、自分の生活を楽しむことができるようになってきました。
母は高齢ですが、自分の年齢のために何かをあきらめたりはしていません。
頭もはっきりしているからか、私にもあきらめずに、○○がしたい、○○に行ってみたい、ということを言います。

妹には、あっさり言ってくれない、と言われていたらしい母が、私には結構あれこれ言うのです。最初は、本当にちょっとは遠慮してくれないかしら?と思いもし、表現もしてしまいました。高齢の方々(何かしらの先輩に当たる方々。)は、結構お家で気を遣っていらしたみたいでしたが、私が何か言うと、

親に向かって偉そうに!

と怒られて、びっくりしてしまいました。これはほかの兄妹には言わない発言だろうと思って、自分の年齢を思い、不思議の感に打たれました。

でも、やってみればいいのです。
母が神に召される日は、おそらくは私より早く来るのでしょう。
父が私に託したように、できるだけ楽しく暮らしてもらいたい。
ならば、やってみればいいのです。

先日も、楽しいお出かけの後に、意外な出会いがありましたし。
気付けば、仕事オンリーになってしまいそうな生活が、いつしか生活を以前より楽しむようになっています。
一緒に住んでいるだけで、別に介護をしているわけではない、という母の主張通り、母はまだまだ元気で、頭もしっかりしています。
昨日などは、あるサークルのチラシを見せて、

これに行って見ようかと思うけど、どう思う?

と聞いてくる有様です。
まだまだやる気満々。私の仕事も手伝いたいし、お料理も、ちょっと工夫をしてみたい。何より最近おしゃれをする気に目覚め、ファストファッションからそのほか、アクセサリーまであれこれ楽しんでいます。今日など、先日買った鮮やかな緑のセーターに、私があげたネックレスを合わせて、

ねえねえ、これ合ってると思わへん?

と合わせてみて楽しそうです。また素敵に合っています。

要するにとっても元気です。
私の悩み事にも結構ちゃんと答えてくれています。

それに、ちょっと素敵な若い男性に推しがいて、その方たちを目当てに、ではないのでしょうけれど、それはそれで元気のもとになっているようなのが素敵です。私にもそういう方々がいてほしい。
いえ、私の周りには若い、主に学ランをお召しになった若い男性がたくさんいらっしゃるので、数的には十分で、それも仕事の対象なので、推しになろうはずもありませんが・・・。(笑)

ということで、正しければ別にどなたのご要望もお聞きできる私は、仕事なり、生活なりで、人様のために働くことにいたしましょう。
何より、私もそこから喜びも楽しさもたくさんいただいているのですから。

もしもサポートしていただけましたら、そのお金は文章を書いて人の役に立つための経験に使います。よろしくお願いいたします。この文章はサポートについて何も知らなかった私に、知らないうちにサポートしてくださった方のおかげで書いています。