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矛盾を抱えながら生きていくことの強さについて
しいたけさんの記事を読ませていただきました。
つい頷くことしきり・・・。
私は、その昔、大切なことのためなら、友達は言うもさらなり、言ってみれば恋することも、遊ぶことも切り捨てることができるほど意志が強かったのです。
恋についていえば、中三の時、あれこれ思うことがもう煩わしくて、大好きな勉強を全うするため、一日部活を休んで、私はその人への思いを断ち切りました。
同じ部活のその子は、その前の年の秋、私のことが好きだとかなんだとか言っていて、そのことが気になっていたのでした。
仲は良かったけれど、それ以上に気になるのはごめんでした。
なんだか修行僧みたいですね。
セーラー服着た中学生が思うことではありません。
でもそれほど情に流されることが嫌でした。
私の父は本当に意志の固い人で、私もそれを見習わなければ、と思っていました。
父もそうですが、私に、
お前にはその覚悟があるのか?
などと私の意志の固さを確かめる表現をする人がなぜか周りに数人いらっしゃいました。
でも、高校に進学すると、むしろどうもごちゃごちゃした感情をあれこれ抱えるようになりました。
以前にも何度も書いてきたように、自分の価値観をあれこれ悩み出したのでした。
それ以降、周りからの、
なんで?なんで?
と問い詰められるのもかまわずに、悩んだり、泣いたり、あまり喜ぶことよりも、葛藤することの方が多く、まあ、国語は葛藤が分からなければわからないと言われるように、私は国語の先生には相当必要な、葛藤することを常にやめられずに来ました。
そんなこと誰も考えてない・・・。
そこまで考えている人はいない・・・。
むしろ考える質の私に、周りの人からどれほど指摘されてきたことでしょうか?
私の問いに対して、まあ、言ってみればうるさかっただろうし、誰もそんなに悩まないことを悩む姿を見せるというのは、どうしたってけむったいことだったと思います。
競争意識の強い同じ会社に勤める人が住む集合住宅で、あれこれ小競り合いのある環境でも、正直、考えるだけ考えて、でも、一度たりとも意地悪を言ったり、非人間的なことをしなかった、ということだけは言えます。人知れず傷ついていた人がいたとしても、言い返したり、わかっていながら嫌なことを言ったりはしませんでした。付加価値的なこと、出身がどこだとか、職歴などで、誰かが嫌な思いをされたとかいうことを除いて。
そんなことを書くのは、転勤が決まって、栄転をたいそう喜んで、態度が大いに変わった奥さんから告白を聞いたからでした。
転勤することに決まってからは、ものすごく偉そうにされたし、上から目線で顎で使われましたが、あることをきっかけに自分の気持ちをさらけ出されたのでした。
嫌いでした。その人が嫌いでした。
でも、付き合わないわけにもいかなくて、いつの間にか私がその人を頼っていると思わせる構造ができていたことを知り、唖然としました。
誰も考えないことでも、ちゃんと悩んでいたのだろうと思います。
後年、私は経営者になり、夫の会社とほかの会社が主催するセミナーに、まったく違う立場で出席しました。もちろん誘いがあったからです。
そのときに、思わず質問してしまったこと、つまりは実感のあったことについての質問を若い方にしてしまったときに、とはいえ、ちゃんと立てつつ気も遣いながら、思わずしてしまった質問に、若い方がしどろもどろのお答えでしたが、ずいぶん上席の方が、横から、
いえ、我々はお客様を見つめてこなかったんですよ・・・。
とおっしゃいました。
私が、これでいいのか?この態度でいいのか?私たちはお客様のおかげで生活させていただいているのに、世間様に大きな顔をするという理由がどこにあるのか・・・?と思い詰めてきた答えがそこにはありました。
だからこそ、まあ、俗っぽい言い方をすれば偉くもなっておられるのだと思います。
大きな組織だからこそ、私が誰だかなどわかりません。というより、一顧客の言ったことにあれこれ考える余地もなりでしょうし、その証として、だから付き合ってくれないということはありませんでした。
そのときに、女性の社長さんが、
あなた勇気あるわー。
と言ってくださいました。
放っておけなかったのです。
どこにでも矛盾というものはあります。
自分の理想と、現実とのギャップ。
なんでそのことに付き合わなければならないのか?
その集合住宅での生活こそそういうものでした。
感情論渦巻く環境で、私などの価値観と全く違う人たちと生活していて、とはいえ、今ならもう少しは上手に理解もでき、上手にふるまうこともできただろうにとは思いますが、それこそ私が疑問に思い、周りに投げかけていたことでした。
ある懇意にしていた人に、聞きました。
いったい、私の人生の中で、何の意味があって、こんなことに付き合っているのでしょうか?ばかばかしくて、どうしようもない。
その頃は、自分だけがそういうときを過ごしているのだと思っていたのでした。
違います。
人生というのは思い通りにならないことの連続です。
わけのわからない感情を向けられることもあります。
理屈に合わない目にも遭います。
もっと言ったら、付き合いたくない人とも付き合わなければならないこともあります。
おかしなことも言われます。
でも、それが当然と考えている人にとったら、私の方がおかしく思えることでしょう。
嫁になったら、姑の言うことは絶対服従だと思っている人もいます。
自分がそうしてきたから。そして娘がひどいことを言われてきたのに、あんたが少々言われたことに、なんで耐えられないのか?
という考えの人もいますが、そういう人から見たら、私がおかしな人間になっていることもあり得ます。
そういう、おかしいな、ということにも付き合ってきて、私は今の仕事に役立っているなと思うことがたくさんあります。
そして、もう一方で、最近のお付き合いの中には、若いころ、そうであってほしかったと思われる人間関係に近づいてきているように思われるのです。
長い長い苦悩の時を経て、なぜか思うようになっているような気がします。
それも、まるで引き出しがたくさんあるかのように、ああ、この人って、こういう気持ちなのだろうなということが想像できるくらいに、今まで経験してきたことがたくさんになってきました。
経験しておいて、無駄なことはおそらくあまりないのだと思います。
私の場合、かつて苦しんだ人間関係のおかげで助かっているということはたくさんあります。
私もかつては人の中に入るのが苦手で困っていました。
職場で飲み会があると、逃げたい気分でした。
もちろん、同期が一人もいなかったこともあるかもしれません。
でも、それよりも、とにかく周りの人が怖かったのです。
高校の教師の大半が男性だった時代です。
まだまだいわれのない表現があちこちで聞かれました。
そういうことにあまり敏感な方ではないのですが、とはいえ、仕事に邁進している時間は、あれこれあったとしても、やることが多いので気持ちが保っていられます。
でも、みんなで遊ぶとなると、どんな会話をしていいのかわからない。
本当に困りました。
挙句の果てに、同じ寮に住んでおられた先生に、
例えばなんですけれど、昨日の飲み会の後のボーリングで、私が楽しくないということがバレたらどうしようと悩んでしまうんです。ほかの人が楽しんでいることが私には楽しくないということが、気になってしまって・・・。
そしたら、
先生、それは無駄なことだよ。
人間って意外なものだねえ。いつも明るい顔しているから、そんなこと考えてるなんて、ちっともわからない。今日は僕も勉強になったよ・・・。
などと言っていただいたのでした。
そののち、いろいろありました。
いつしか、その時自体を過ごすことが楽しくなりました。
どこかに目標があって、そこに突き進むための時間ではなく、子育てのその時を楽しむというような。
だから、PTAの会合で飲み会があっても、楽しく過ごせるようになりました。キャンプも楽しめるようになりました。
思えば、いつも、どこかにたどり着くために努力してきたのかもしれません。
結果を出してなんぼ、という世界にいたのかもしれません。
でも、誰かの嬉しい顔を見たいから、おいしいごはんをつくるようになりました。
何かに向かっていくのではなく、その時を楽しむ時間の使い方ができるようになりました。
とはいえ、今でも、つい時間の使い方は有効だろうか?と考えてしまいがちです。
遊ぶときは遊ぶ。
家事を楽しむときは楽しむ。
仕事は仕事で楽しむ。
いろんなことにアイディアを出す。
それって、結構有機的にほかのことにもいい影響があると思うのです。
もっと言えば、しいたけさんのおっしゃるように、悩んもんがちな気もしているのです。
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