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もっていたい視点

大学時代、文学概論の時間が好きだった。

同級生たちは、あらすじ言ってるだけ・・・、などと言っていたけれど、同じ文学作品が、それはもう素晴らしい切り口で語られ、とんでもない視点を見出せるものだった。

そんな中、夏休みに出たレポートを、忙しさのあまり、一晩でさらっと書いてしまった。まるで一筆書きのように、構想ができ、自分の思いを下書きして、ほぼほぼ清書しただけのレポートだった。

自分がいいと思う講義を聴いてのレポートだったので、評価も高かった。本当に嬉しかった。思い切り専門分野のレポートでもなかったけれど、嬉しかった。

評価が高くても、納得できないものもあるけれど、このレポートの内容は覚えている。

そのときに書いた、虚構性の問題。

一つの真実もまた、誰かの主観で、誰かの口を通してしまったら、それは虚構になる・・・、というような内容だった。

語ることはできる。どうにでも。

それは自分を擁護するためのこともあるだろうし、正当化するためのものでもあるだろう。もっと大きく言えば、認めてしまえば自分の人生が崩れるから、違うストーリーを一生懸命語ることもあるだろう。

かと思えば、かの『夜と霧』の著者であるフランクル博士のように、ポジティブに、人を悪く思わず、善意に解釈することで、新たな、自分が生きて行きやすいストーリーを描くこともできる。

フランクル博士は、あの壮絶なホロコーストの中で、収容所に居ながら、たった一人のドイツ人が、自分の懐からお金を出して、囚人に薬を買っていたこと、そして、1人1人の囚人の死を悼むために、木の幹を削って墓碑銘にしていたと言って、ドイツ人、とひとくくりにしようとはされない。

つい、状況を、人を悪く思ってしまいそうになるとき、いつもフランクル博士を思い出す。そして時間があれば、『夜と霧』を読み、いったい、今の私に何の文句が言えようか・・・?と思わされる。

虚構の力。

それは自分が、自分の人生を生きやすくするために使うこともできるはずだ。

そして、それは人に納得させるものとしてではなくて、自分を納得させるものとして使いたい。


あまりにも人の話が自分を守るためのものであると思わされるとき、さて、私はこの話をどうストーリーづけるか?と思う。

自分の人生の中でどう意味づけするか・・・?


人生に意味なんてない。人生が意味を問うている・・・、か。


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