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スウィート・ヒアアフター

よしもとばななさんの「スウィート・ヒアアフター」を読みました。このお話は3.11後に描かれたもので、被災された方にも、そうでない方にも、全ての人に向けて書いた小説だということを知り、そうだったんだ。。という思いでなんだか胸がいっぱいになりました。

あの震災という出来事は本当に多くの方が心を揺さぶられ、被災しようがしまいが、たとえ日本人ではなくても、遠い国に住む人達へも小さな波紋となり振動として身体の内部に刻み込まれていったのではないかと思う。

その振動は筋肉や神経、脳にまで行きとどき思考の変化も促す。そう、だから身体はすごく正直何だと思う。自分が何を考えているか判らない、という時は身体の状態を見てあげるとその判らないの正体の全貌の一部が見えてくるのではないか。

今、世界中に蔓延している某ウィルスも、そういった意味ではじわじわと身体と心に影響を与えてくる。しかも”世界中の人々が意識をそこにフォーカスしている、それって本当に凄い事なんじゃないか。昔も疫病はあったけど、インターネットもなかった時代でその存在すら知らなかった人々もいるだろう。ほんと、風のうわさで聞いたんだけど、何か流行ってるの?という人々もいたと思う。

そういった意味では世界中の人々の身体、思考や価値観も切り替わる時期にあるのではないだろうか?

少し話が逸れてしまいましたが、このお話にでてくる主人公は大事な人をなくし、自分の身体にも大きな傷を負ってしまいますが、その彼女の心と身体が治癒していく過程が人との出会いや化学反応を通して新たなステージへ脚を踏み入れていく姿が描かれています。私がいつもよしもとさんの小説を読んでいて良いなあと思うのは、心の動きがすごく微細に描写されているところです。ちいさすぎて見落としてしまうような、こころの動き。こういったちいさな動きは読んでいる世界に色や潤いが一気に増してきます。このちいさな動きというのは自分自身のものでさえも見落としてしまう事が本当によくあると思う。だから、身体を見よう、知ろう、そんなメッセージをも受け取っているように私はいつも感じています。

そしてこのお話には、何か「祈り」の様なものを感じます。お話の中で亡くなってしまった彼への、その彼と一緒だった昔の主人公への祈りを通して、震災の時間を過ごしてきた全ての人々への祈り。私は震災の時、海外に在住していて、自分の非力さを本当に痛感していました。そんな非力な美大生だった私は短いお話を書いていました。火山の噴火で日常を失ってしまった人々がその生活の中にユーモアを忘れずに過ごしていく、そんなお話です。そのストーリーを描いている時によく、これがいつか必要な誰かに届けば良い、と思っていました。そして今になって判った事があります。それは全制作過程に「祈り」が入っていた事です。家族が大丈夫であって欲しい、友人が大丈夫であって欲しい、そして自分もしっかり異国の地で立っている事ができるように静かに静かに祈るように生活しながら書いていたのを覚えています。

「祈り」にはお金や支援物資の様な即効的なインパクトは持たないと思いますが、届くものなのではないかと思う、というか、そう信じたい。その祈りは自分だけよりは誰かと共有する事で、時を経た今この瞬間にも色味を持って思い出す事ができるのではないかと思う。この本を読み終えた後、当時支えてくれた人達の顔を思い出しました。

今日も良い一日を!

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