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ことばと家族的類似

5月に何とかもう一つ書こうと思っていたのだが、もしかしたら間に合わないかもしれないという時期になってしまった。時間の流れは止められない。

さて、今回は今井むつみ/秋田喜美「言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか」を読んで思ったことを書いてみる。主に言語の習得においてウィトゲンシュタインの言った「家族的類似」が大きな役割を果たすということについてである。

今井/秋田本では、人間が言語を持つということについて「オノマトペ」を手掛かりに考えている。抽象的で膨大な記号の体系である言語の習得にあたって、小さな子どもはコロコロ・フンワリ・ワンワンといった感覚イメージを写し取る「オノマトペ」を一つの大きな手掛かりとしている。「オノマトペ」が言語横断的である(外国語の「オノマトペ」もなんとなくわかってしまう)ことからも、その音が何らかのイメージをことばに結び付けることに役立っているということがわかる。
そしてその結び付きを自由に拡張していくことによって、間違いを繰り返しながら体系的な言語を習得していく。子どもが練乳のことを「イチゴのしょうゆ」と言い間違えるとき、練乳としょうゆという味も色もにおいも違うものが「何かにかけると美味しくなる」という機能的な類似性をその言い間違えた子どもは理解しているということなのだ。その理解のもとにソースやケチャップ、フランス料理の皿に芸術的に描かれるカラフルな線などを理解することが出来る。
その間違いは、ヒトという生き物があることを知るとその知識を過剰に一般化することによる。ヒトはそこからパターンを抽出し未来を予測する。因果の道を過去へと遡る。「AならばB」であったとき、「BならばA」を推論することが出来るのはヒトだけなのだ(ここにはパースの「アブダクション推論」という結果の由来を推論する推論形式が関わっているという議論があってこれもこの本の面白い所なのだが詳しくは本を読んでみていただくということで)。
この過剰な一般化にことばが関わっているであろうことは容易に想像できる。抽象的で膨大な言語体系は、このような間違う可能性を含んだ推論で結び付けられていく類似性の連鎖によって組み上がっている。

ここで僕が考えたのがウィトゲンシュタインである。
ちょっとズレながら重なる類似性の連鎖としての「家族的類似性」。

ここで考えを進めるためにもう一本の補助線を引く。

横山信幸さんのブログ「独今論者のカップ麺」から最近書かれたウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」についての考察である。
このブログはとても面白いので色々読んでみてほしいのだが、とりあえず今回はこの「赤ちゃんがはじめて言葉を獲得する場面で「論考」言語論はどこまで有効か」その1からその3までに助けを借りることにしたい。

僕がここで興味を持ったのは、赤ちゃんが「ママ」と言えるとき、あるいはママを認識するその先端で「或る何かではない或る何かである」という弁別可能性が要請されるという議論である。
論考ワールドの論理空間では、すべてが命題の真偽として言語化され得る。「ママ」を認識したその瞬間に、赤ちゃんは「ママ」と「ママでないもの」(つまり「ママ」以外のすべて)という枠組み全体を把握することになるのである。
そこには写像理論という「記号の接地」がなければならない、ということになるのである。
ブログでも言及されているように、論考ワールドは、論理空間全体が確定している。その外はナンセンスとして最初から排除されている。だから、赤ちゃんは新参者として言語システムを学ぶだけの受け身の存在として世界に参入するのである。「ママ」が何であるかは最初から確定しているので、それを学習することになる訳である。だから赤ちゃんが言う「ママ」という言葉は、真であるか偽であるかあるいはナンセンスであるか、その判定ができるということになる。

ここで僕は、論考ワールドに、今井/秋田本のような間違いを含んだ推論による類似性の世界を重ね合わせて考えてみたいのだ。
今井/秋田本で言われているように、言語を使った推論能力によって僕たちは過去や未来を行き来する。ウィトゲンシュタインが論考ワールドで排除しようとした過剰な一般化こそが、時間を駆動しているのである。
論考ワールドは、時間が止まっている。というか世界が限界確定されているということは、無時間にすべての知識が存在しているということである(だから横山さんのブログその3の最後の方に出てくる「ママ」の名が作り直されなければならない問題が有限な時間的人間においては常に登場してくることになる)。
僕たちの時間に関する能力は、多分に上に出てきたような間違えるかもしれない推論能力に負っているのであり、それを結び付けている文法は論考ワールド的論理形式に限らない。

僕たちは言葉とは別にSinnやBedeutungといった意味があるものだと思ってしまう。「明けの明星」「宵の明星」「金星」と言われたとき、これらは同じものを表現したものであるということを当たり前に受け取っている。そしてそれらの表現された同じものが、その言葉の「本当の意味」なのだ、と。
しかし、この「本当の意味」に対しては、どこまで行っても「オレがあのとき見たあの『明けの明星』はオレだけのものだ!」という中二病的な反発が付きまとう。この反発は故なしなものではない。だから古来普遍論争なるものがなされてきたのだ。しかしこの反発は「個か普遍か」という対立だけに基づいているのではない。ここには「あの時見た」という時間軸も交差している。
同じものを見たとしても、時と場合(これは確かに「時」と「場合」の二つなのである)によって姿=意味を変えているように感じることがある。論考ワールドにとって、それは曖昧模糊として気味の悪い排除すべきものであった。「あの時見たあの『明けの明星』」というものは名=対象として、語り得ない世界の側のあり方として、ある。
一方でそれが時と場合によって姿を変えるというそのことが、そもそも僕たちがことばを通じて持っている推論する能力なのだ、ということを今井/秋田本は示していたように僕は思う。世界とことばを通じて関わり合う僕たちは、「あの時見たあの『明けの明星』」ということばを常に生成変化させながら生きている。

時間を止めることによって明晰な論理空間を構想したウィトゲンシュタインの論考ワールドは、崩壊の道をたどるにせよ(以前「論考ワールドの崩壊」をnoteに書いた)

ことばと世界の関わりの一端を確かに示している。
赤ちゃんがことばを発するその瞬間の考察という横山さんのブログの試みは空間を止めて(前提条件を取り払って)時間だけでことばと意味について考えることができるだろうか、という問いであると思う。
その思考実験に直接に応えるものではないが、今井/秋田本では言語習得を「オノマトペ」という形や音の類似性を取っ掛かりにして考えている。
この類似性も形が似ているとか色が同じとかだけでなく、同じように使われるとかよく一緒にあるとかと融通無碍である(このような曖昧な類似性をウィトゲンシュタインは「家族的類似」といった)。
僕たちは類似性をヒントにことばと意味のつながりを発見し、推論能力を手掛かりにそのつながりを拡張していく。その発見と拡張はあまりに自由なので、僕たちは子どものことばを「間違っている」ものとして扱う。これは論考ワールドが語り得ないものを排除したのと同じことである。しかし、言語習得に関してはこの排除された方のものこそが重要な役割を果たしている。

赤ちゃんの「ママ」という発声が作り出しているものは、「赤ちゃんの世界」ではない。
では、「ママ」という赤ちゃんの発声は、何を作っているのか。
それは「ママ」という声を聴くママの、そして僕たちの世界を作り出している。赤ちゃんの発声に意味があるかないか、という問いは実は論考ワールド的な問いでしかない。ママが赤ちゃんの発声を「ママ」ということばとして「聴く」、それが「マンマ」であっても「ンマ」であっても、類似性でくくられて「私のことをママと呼んだ!」として受け取ることによって、赤ちゃんを巻き込んだコミュニケーションを構成する。そのことが、赤ちゃんを、ことばに関わり合うママや僕たちの世界の一員として迎え入れるのである。
ウィトゲンシュタインの『哲学探究』で言語ゲームとして「板を持ってきて」とか「リンゴ5個買ってきて」「子どもにゲームを教えて」とかと「言われる」側を記述していたのは偶然ではない。コミュニケーションは、ある発声や文を「受け取る」側から始まる。
そして互いのことばを通じて意味を生み出していく。赤ちゃんの「ママ」という発声は、宛先としてのママを、そしてママがその発声を「私のことを呼んだ」ものとして推論して受け取ることを必要とする。そうしないと、原初的な意味発生は起きない。僕たちが「ママ」ということばを受け取ることによって赤ちゃんも同じ世界の一員として迎えられていく。

ことばは原初的にこのようなすれ違いを含んでいる。曖昧な類似性と間違えるかもしれない推論能力によって自由な拡張ができるのも、実はこの原初のすれ違いがあればこそではないか。
しかし、ことばは外に出て「モノ」になることによって時間を止めて、あるいは時間を越えて固まることもできる。そのようにしてたった一つの意味と強固に結び付くことができるのもまたことばというものだとも言えるだろう。
すれ違いながらも結び付く、そんなことばの姿を、少しでもことばで表現したい。そんなことを考えている。

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