見出し画像

私的「私的言語論」論

札幌もだいぶ暖かくなり、日々雪解けが進んでいる。

さて、中村昇「続・ウィトゲンシュタイン『哲学探究』入門」を読んだ。

「続」だから前もある訳で、それもこっちもどちらもとても良い。「哲学探究」読んでチンプンカンプンだった人でも大丈夫な気がする。

だからということでもなく以前からやってみたかったからということではあるのだが、この本を導きの糸として使わせてもらって今回はウィトゲンシュタインの「私的言語」について考えてみたい。

まずは「私的言語」とはなんぞやということなのだが、いつものように僕らの味方Wikipediaを引用してみよう。

ただ一人の人だけが理解できる言語

Wikipedia「私的言語」より

シンプルで分かりやすい。その人だけが理解できる言葉、そういうものが「私的言語」と呼ばれるものなのだ、と。ちなみにwikiでもこれ以降の詳述はパッと見て難しい説明が続いている訳だが、とりあえず「私的言語」をそういうものとして考えよう。

そしてこの「私的言語」なるものが成立するかどうか、ということをウィトゲンシュタインは「哲学探究」の一節で考えている。
「私的言語」の例として考えられているのがかの有名な(?)感覚言語「E」の話である。

繰り返し感じる感覚について私は日記をつけようとする。そのため、私はこの感覚に「E」という記号を結び付け、それを感じた日は、カレンダーのその日の欄にこの記号を書き込む。

ウィトゲンシュタイン「哲学探究」(鬼界彰夫訳)258節

中村の解説によれば、この繰り返し起こる感覚「E」は「私」の記憶の中にしか存在しないので確認がしようのないものとして存在している。だとすると、「繰り返し起こる」ということ証拠がないから、それは単に思い込みに過ぎない。従ってこの記号「E」には何の機能もない、ということになる。そして「自分だけの感覚を自分が感じたこの瞬間の唯一無二の感覚として表現したいのであれば、特別にあつらえたこの感覚だけの表現がなければならないだろう」。私的なものの周囲は言語ゲームに包囲され、それをそのまま言語化することはできない。

しかし、この感覚日記はパッと見できそうな気もする。感覚というものは他人が何と言おうと自分がそうであれば痛かったりくすぐったかったり痒かったりするので、それと同じように「E」であれば「E」なのだ、と言えてしまうような気がするのだ。
これは、ウィトゲンシュタイン的な言い方を使うと、「E」は感覚の文法に則っているのでいつかどこかで他人と共有可能なものとなる可能性に開かれているのではないか、ということだ。
そしてそれでもなおそのことは、「文法」に則った言語ゲームが、僕たちの周囲を包囲しているということと同じことだろう。感覚日記が「私的言語」であるのならば、それは不可能ではないかもしれない(逆にそれは言語が発生する始原のようにも見える)。しかし、僕たちはウィトゲンシュタインの言う「文法」に則った言語ゲームの外側には出られない。所詮感覚日記も感覚の文法に則っている。

ウィトゲンシュタインの「私的言語」の話は、こんな感じで言語ゲームの根源性を示す。「哲学探究」でその前に配置されている規則についても、「規則に私的に従うことはできない」というように、同じことを示していると考えられる。「規則に私的に従う」ことが不可能なのは、それが僕たちの文法によっては捉えることができないので、「私的な規則に従う」ことに変換されてしまうことによる。クワスとかグルーとかいう「形」にすることによってしか、つまり別の規則である「私的な規則に従う」という形にすることでしか、「規則に私的に従う」ことを例示することはできない。そうでないとしたら、それは僕たちには規則に従っているようには見えないだろう。

そうなんだけど、少し立ち止まって考えたい。

どうしてそんな風になっているのだろうか。
それが言語(or言語ゲーム)の力なのだ、ということかもしれないけれど、それは一体どんな力だというのか。もう一度ウィトゲンシュタインの言語ゲームについて見ていこう。

言葉というのは、通常何かを表現していると思われている。コップという言葉はこの目の前にあるコーヒーが入っている容器のことを表現しており、リンゴというとあの赤い果実のことを表現している。走るという言葉は足を交互に素早く出して進むことを表現している。これらの言葉は、そうであることとそうでないことの境界を描くことができる。
しかし、ウィトゲンシュタインはそうではない種類の言葉があることを示した。例えば「理解する」という言葉。僕たちは理解していることと理解していないことの境界をどのように持っているだろうか。足し算を理解していることは、足し算ができることかもしれない。
では「走る」は「走ることができる」と同じだろうか。ある種の言葉には、このような違いがあるのだ。
しかし僕たちは言葉が何かの表現であると思っている。だから「理解する」と言うと「理解している状態」がどこかにあるんだと考える。それはどこにあるのか?と考える。
ウィトゲンシュタインはそれを治療対象にしている。

僕たちは別にそんなこと考えずに「理解する」という言葉を使う。しかし、ウィトゲンシュタインは、自分を含む「哲学者」は「理解する」という言葉で表現される正しい対象を求めてしまうと考えた。しかし、僕たちは「理解する」という言葉をそんな風には使っていない。だから、実際の使用法を見てみよう、とウィトゲンシュタインは言う。その実際の使用が言語ゲームだ。しかし一方で僕たちは何のルールもなく当てずっぽうに「理解する」という言葉を使っている訳でもない。「理解する」という言葉を使う人はそれを通じるように使うことができる。そこには生活形式の一致がある。
要するに僕たちが特に考えることもなく普通に使っている言葉は、正しい対象を適切に表現しているから通じている訳ではなく、そもそも生活形式が一致しているから通じるのだ。

これがウィトゲンシュタインの言語ゲームについてだが、しかし一方で僕たちは言葉が何かを表現するという見方を根強く持っている。だから言葉が正しかったり正しくなかったりすることができると思っている。それは規則に従う=ルールに則っていることともまた別のところである。将棋の対戦でルール通り最後まで終わらせることができることと、勝つために正しい手を指すこととは別のことではないのか。
僕たちは確かに言語ゲームに逃げ場のないように包囲されている。しかし、そのゲームは実は一つではないのではないだろうか。将棋をルール通り最後まで指し通すゲームと、勝つために一手一手を選択し続けるゲームと、時には対戦相手を不機嫌にしないために配慮をするというゲームと…その重なり合う複雑なゲームを、僕たちは日常そうと意識することなくこなしている。
それをシンプルにするために言葉を用いているのではないだろうか。
言葉というモノを媒介にすることによって、それを蝶番にすることで複雑に重なり合うゲームの交通整理をする。だからこそウィトゲンシュタインのゲームは言語ゲームなのではないか。
そのような役割を持っているから、言葉は「何かを表現する」ものと考えられる。
そうすると整理をしやすくなるから。

一つの言葉をめぐっても、多様なゲームが重なり合ってなされている。だからそのゲーム同士の重なりはピッタリ重なるのではなく、ズレながら重なる「家族的類似」にしかならない。
それでもゲームの重なりの複雑さに耐えられない僕たちは、それを一つの言葉の中に押し込めてしまう。
ウィトゲンシュタインの発見した言語ゲームの多様性は、僕たちが一つの言葉の中に押し込めていたものを開放し、後ろから光をあてたものなのだ。

ウィトゲンシュタインは言葉に対応する表現されるものがカンゼンカンペキにあるのだ、という「哲学者」の治療を試みた。
治療を徹底した結果、僕たちは周囲を言語ゲームに包囲され、今ここにあるとしか思えないこの・・「E」のような言葉が拒否される。
ウィトゲンシュタインがやってきたのは、そういう言語ゲームだ。そのようなゲームを僕たちは「哲学」と呼んでいるのだと思う。ウィトゲンシュタインは「哲学者」を治療するという「哲学」をやっている(それが「反哲学」と呼ばれようと僕には関係がないと思っている)。

だとすると、そこにはそのウィトゲンシュタインのゲームの蝶番となっている疑い得ない所があるはずだ。
感覚「E」という言葉が拒否されるのは、それが「私」の感覚ではないからだ。この「私」という言葉もまた、人称の文法に則っているので、どの「私」なのかは決まらない。
僕たちはこのギャップを易々と飛び越えて「私」という言葉を使っている。「私」は間違えようがなくいつもずっと「私」なのだが、どの「私」もみんな「私」である。
そんな変なことを可能にしているのが言葉の力ではないか、と僕は思っている。言葉というのは発せられた瞬間に「外」に出て、「内」とは別になるから。
だからこそ言語ゲームは僕たちを包囲している。「内」を消去して「外」だけを見ていくと言語ゲームが姿を現した。「外」だけが世界であるとするならば、言語ゲームに更なる外側など求めることはできない。
しかし、逆に「外」を消去して「内」だけを見ていくこともできるはずだ。
「外」だけを見た言語ゲームにおいては生活形式の一致は語り得ない。それは言語の使用を並べて重ね合わせることによって示される。
では「内」だけを見たらどうなるのか。例えば「私」だけしかいないという独我論。これは時間的直線方向に「私」が常に一定であるという重ね合わせによって示される。しかし「私」という言葉は誰もが自分のことを指して使うことができる。独我論もまた語り得ず示されるしかない。

ここには同じ形式がある。
他を許すことができない唯一のもの(一致であったり独我であったり)であるはずのものが、複数の重ね合わせによって姿をみせるということだ。
僕たちの日常はこの重ね合わせを何の疑問も抱くことなくすることによって成り立っている。僕たちは何の苦労もすることなくそれをしてしまっている。だから、そのことが問題であるなんてことは考えもしない。
しかしウィトゲンシュタインはそこで立ち止まってしまった。「論理哲学論考」の美しい唯一性から「言語ゲーム」の究極の複数(一般)性へ。
僕はこの移行が、一人の哲学者によってなされたことこそが偉大なことだと思う。両方をあまりにも当たり前に行き来してしまっている僕たちの日常から一歩非日常へと踏み出す、そんな思考が偉大でない訳がない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?