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生きるとは「記憶」や「記録」よりも「今」の感覚に集中すること(メメント)

クリストファーノーラン監督映画「メメント」を観ました。

これまで観たことの無い「巧みな構成」

主人公レナードが10分前の記憶を失ってしまう感覚を追体験するように、時系列がぐちゃぐちゃな映画で、一度、自力で観ただけではストーリーを理解できませんでした。

映画を観たあとに、filmarksとwikipediaの解説を読んで、ようやく時系列に沿って、内容を理解することが出来ました。

2つの時系列を交互に繰り返したり、同じ出来事を違う人物の目線で何度か繰り返したりする映画はこれまでも観たことがありました。

今回、メメントでは、2つの時系列の繰り返しに加えて、一方の時系列の中で、更に後ろ向きに物語を進めていくという構成が斬新だと感じました。

10分前の記憶が無くなってしまう「恐怖」

主人公レナードは10分前の記憶が無くなってしまう「前向性健忘」という記憶障害を持っています。

映画を観ている間は、ストーリーを理解することに必死でした。鑑賞後、映画の構成を理解してから、改めてレナードの気持ちを想像してみました。今、なぜ自分がここにいるのか、何をしているのか、誰を信頼すると良いのか、そもそも過去の自分の記憶やメモは本当に信頼できるのか、わからなくて、不安で、怖くてたまらないと思いました。

もしも自分も、10分前の記憶を無くしてしまうようになったら、今いる場所から動くこと、人と関わること、そして、生きていること自体も出来なくなってしまうかもしれません。

「健忘症」と「認知症」の違い

記憶が無くなってしまうというと、今回の主人公が患っていた「健忘症」ではなく「認知症」を想起しました。

ホスピタクリップ「「健忘症」と「認知症」の違い!【監修医師:畠山医科歯科クリニック 畠山 毅 院長】」によると、「健忘症」と「認知症」の違いは、「健忘症」は忘れたこと自体は覚えているのに対して、「認知症」は忘れたこと自体もわからない状態になるということでした。

また、「健忘症」の中でも、障害以前の記憶が無くなってしまう「逆行性健忘」と、障害以降の記憶が無くなってしまう「前向性健忘」とがあるそうです。

「記憶」と「記録」についての問い

映画を観て、「記憶」について、また「記録」についての、問いがいくつも浮かびました。

人が生きていくために「記憶」は実はかなり重要なのではないか?
人は自分が何者なのかを常に問い続ける存在であり、何かを信じられるものを必要としている存在だと思った。
「記録」は「記憶」の代替えになるのか?
「記憶」が無くなってしまう主人公レナードは、「記録」だけに頼って生きようとしていた。ただ、「記憶」がないままに、「記録」だけを信じて生きる辛さ、危うさを感じた。
人は「記録」さえあれば、すべての「記憶」が無くなっても生きていけるのか?
「記憶」が無くなってしまったら、生きる希望が無くなりそうだと私は思ったが、主人公レナードは「記録」を頼りに生きていこうとしていた。
「記憶」はあるのに、なぜ人は日記や写真で「記録」を残すのか?
「記憶」が無い主人公レナードが生きるための「記録」をするのに対し、「記憶」がある人も日記を書いたり、写真を撮ったり「記録」に夢中になる。多かれ少なかれ無くなる「記憶」を少しでも残すため、人間は「記録」をせずにいられない生き物なのかもしれない。そして、それほどまでに「記憶」は生きていくために、大切なものなのかもしれない。
「記憶」も「記録」も不確かであったり、断片的な情報に過ぎなかったりと、頼りないものではないか?
世界で本当に信頼できるのは、自分だけ。自分が体験した「記憶」や自分の手で残した「記録」が一番信頼できる。しかし、「記憶」も「記録」も実は頼りなく、本当に、本当に信頼できるのは、「今」自分が感じていること。一番、信頼できる「今」を感じられるか否かという視点でみれば、「記憶」は無い主人公レナードも、「記憶」がある人も、変わらないのではないか。

まとめ

「記憶」を無くしてしまう主人公レナードを描いた映画を観て、「記憶」そして「記録」の頼りなさに気が付きました。

「記憶」が無くなると、自分は何者なのか、何を信じれば良いのか、不安になると思いました。そして、「記憶」があったとしても、自分は何者なのか、何を信じれば良いのか、常に不安だからこそ、人は「記録」に必死になると思いました。

これまで、自分が思っていたよりも、自分が信じていることも、他人が信じていることも、頼りないということに気が付きました。

そして、「記憶」や「記録」よりも、「今」の感覚に集中して、「今」の感覚を重視することが、何よりも人が「生きる」ということなのかなと、映画を観て私は感じました。