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「大丈夫じゃない」とは言えない相手に「大丈夫?」と声をかけること(かかわり方の学び方)

西村佳哲著「かかわり方の学び方」を読んだ。

著者は美大で学生に教えることをきっかけに、「学生とどう関わればよいか」という問いを抱く。そして、ワークショップやファシリテーションに関わる人々と言葉を交わし、問いを深めていく過程を描いた本だった。

”ファシリテーションの技法”のような小手先のテクニックではなく、それ以前に自分が”場”にどのように存在するか、他者とどのように関わるかに焦点を当てている本だと思った。

その中でも、「自分のための投げかける他者への問い」という概念が頭に残っている。

「一緒に歩いていて転んでしまった子どもにかける言葉」の例が印象的だった。子どもが転んで、「大丈夫?」と声をかける時、そこには「大丈夫」とこたえて欲しい気持ちが混ざっているのではないか。それよりも、「どうした?」「どこが痛い?」という問いかけの方が子どもに寄り添った声の掛け方だ。

この例を見た時に、「大丈夫?」という自分本位な問いかけをした過去を思い出した。わたしは中高バスケ部だった。チームの中では体力がある方だった。きつい練習の時、全然体力がない後輩はヘニョヘニョで、なんと声をかけて良いかわからなかった。大丈夫じゃないのは一目でわかるし、「大丈夫?」と声をかけても「大丈夫じゃないです。」とは言えないこともわかっているのに、なんと声をかければ良いのかわからなくて、結局「大丈夫?」と声をかけていた。肩で息をしながらなんとか練習をしている後輩に、何も声をかけない居心地の悪さを少しでも解消するために。

この時、わたしはその場にも目の前の後輩にも主体的に関わろうとしていなかったのだ、と今になって思う。その場では、顧問の言葉が一番だった。顧問は体力のない後輩を蔑んでいるように見えた。わたしも、顧問の言葉が一番だと思っていた。後輩が蔑みの目で見られている一方、比較的体力がある私は顧問に認められていたと思う。

当時のわたしは、自分が顧問に認められる事に、無意識に固執していたと思う。「顧問の価値観・パワー」にぶら下がっているだけで、その”場”に主体的に存在していなかった。他の部員ひとりひとりを全然見ていなかった。

もし、もっと主体的にその場に存在し、ひとりひとりにきちんと向き合っていれば、体力のない後輩には、その後輩にあった練習のメニューや工夫があったはずだ。もっと、それぞれの体力に合わせた練習メニューを提案するとか、体力がなくてもパスやシュートのセンスがあった後輩を活かすようなチーム作りを提案するとか、チームや顧問に働きかけることが出来たはずだ。

この他にも、自分がその場に主体的に存在していなかったり、ひとりひとりにきちんと向き合っていなかったり、自分本位な態度で人を傷つけたり、悲しませたりしてしまったことが、沢山ある。だから、「自分のための投げかける他者への問い」という概念が印象的だった。

いつか、自分の言葉を自分のためではなく、他者と関わるために使えるようになりたい。