見出し画像

日ユ同祖論で想うこと

いわゆる、日ユ同祖論というのがあります。「日」は日本、「ユ」はユダヤを略したもので、ごくごく掻い摘んで言うと、日本人の祖先は、イスラエル(ユダヤ)の失われた十部族に連なる者たちだ、という考え方のようです。

確かに言われてみれば、両者の間には思わず「へ~」と驚きの声が漏れてしまうほどに、色々な共通点が見出せるようです。

ただ私自身は、少しばかり醒めた目でこの論争を見守っています。というのも、確かに数々の共通点はあるものの、肝心なところで、両者には決定的な断絶を認めざるを得ないからです。

古代イスラエルにおいて、神は絶対的な存在でした。神と人間の間には、途轍もない距離がありました。これに対して、日本人にとっての神は、確かに恐ろし気な面もあれ、きちんと祀り上げておけば、あれこれと堅いことは言いません。それどころか、自らの子孫を遣わして、担がせようとすらした存在なのです。

この距離感の違いは、遺憾ともしがたいのです。

確かに、現在につながるユダヤ教が形成されたのは捕囚後と考えられています。したがって、それ以前に分かれた部族であれば、彼らの携えていた神観が、私たちが、現在のユダヤ教に見ている神観との間にズレがあっても然るべきなのかもしれません。

ですが仮に、失われた部族が、神と人との距離感までが修正される程に大きな変貌を遂げたのだとすれば、そもそも現在、色々と数え上げられている両者の共通点の根拠自体が怪しくなるのではないかと、思ったりもするのですが…。