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Goodpatchがまだ白かった頃

2020年6月30日にGoodpatchが上場した。
代表の土屋氏が夢見ていたひとつであり、その思いはStay Blueという言葉とともに熱く、冷静に綴られていた。

上場までのストーリーはドラマティックで、幸せ続きで築かれたわけではないだろう。色々の人たちが傷つき、救われていったのだろう。
まるでこのストーリーを見続けてような言い草だが、僕はGoodpatchの中にいるわけではない。

このストーリーの中でいうと、僕は「いなくなってどん底に落とした共同創業者」だ。

Goodpatchのひとつの大きな節目であるこのタイミングで、なんとなく過去のことを綴りたくなった。
これから書くことは、Goodpatchの話というよりは、土屋という男との単なる思い出話。今のGoodpatchのはじまり以前のこと、なぜ僕がやめたのかということ、記憶から薄れていく前に、その頃の僕の思いや、土屋もといツッチーの話をしよう。Goodpatchの話というより、2人の話であり、僕の話だ。

* * *

出会い

出会いは大阪。当時は大阪に本社を置くベンチャーにWebデザイナーとして働いており、ツッチーはたしか制作会社のディレクターだったと思う。その頃、大阪では比較的少なかったであろうIT界隈の交流会イベントで挨拶を交わしたのが最初だったとおもう。その頃に今のGoodpatchをつくるような野望があったのかは定かではないし、なんとなく良いドヤ顔のする男、というところだ。
ただ妙な縁はあり、同じ大学の出身であったり、世代やカリキュラムは異なるが同じデジタルハリウッドの出身でもあった。

2011年当時の日本は欧米のスタートアップバブルの流れが来ていて、各地でアイデアソンやピッチイベントやおこなわれている頃。ツッチーはサンフランシスコはbtraxにインターンとして働いており、僕は最初の会社を辞めて、弾く続き大阪でフリーランスとして仕事をしていた。その前後『HTML5+CSS3で作る魅せるiPhoneサイト』という書籍を出し、スマートフォン向けWeb開発の黎明期にそれなりに経験を持てたので、そうした仕事も受けられていた。

この頃の僕も、ぼんやりとスタートアップやあるいは海外で働くことや、色々なことを夢とは形容できない程度に「したい」という気持ちはあったのだと思う。

今思えばノリでしかないが、サンフランシスコにいた土屋に「遊びに行っていい?」と声をかけると、

是非来てください!車借りてGoogleやApple案内しますよ!

と気さくに返してくれた。これがはじまりだった。

サンフランシスコで変わる人生

完全に観光気分でやってきたサンフランシスコ、ツッチーの案内でとても充実した旅行だったが、それ以上の旅になった。

そんなに英語ができるわけでもないのにbtraxに奥さんと子供連れてサンフランシスコに乗り込んだツッチー、本当に度胸がすごい。それを支える奥さんもすごい。レンタカーを借りてくれるときも、ほぼOKとYesですすめるツッチー、ごはん食べるときに「Sprite」と言っておくと無難です、と教えてくれるツッチー。

約束通り、車でメジャーなサンフランシスコの聖地を巡礼する。Apple、Google、スタンフォード...

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これは当時海外で流行っていた「うつ伏せに寝そべって撮る」というのをスタンフォードでやった写真。浮かれている。
他にも縁があって、Twitter社にも遊びに行かせてもらえた。

この旅ではこうした観光での思い出だけでなく、Goodpatchの結成たるきっかけになる場所が当時のサンフランシスコにあった。

それがDogpatch Labs

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※写真はツッチーの昔のブログから引用

Goodpatchの名前の由来にもなったこの場所との出会いは、僕にとっても人生で大きな衝撃のひとつで、明確に「この場所を日本につくりたい」と思えた瞬間だった。コワーキングスペース、スタートアップハブ、インキュベーションオフィス、呼び名はなんでも良いが、とにかくモノづくりの空気が詰まったその空間は、潜在的に僕の中で持ち続けていた「場作り」と結びついた。

これが今のGoodpatch以前の事業の柱のひとつとなる、はずだった。

帰国後、すぐ参画

この時からツッチーは起業をするということは野望として抱いていたが、僕はまだそこまでイメージは持てていなかった。

ツッチーが3ヶ月ほどのインターンから帰国し、少し時間が立った頃、彼からメッセージがきた。

今後のことでご相談が。

この時に僕がもう感づいていたのかは覚えていないが、結果としてその話のあとすぐに

よろしくおねがいいたします!!

と返事をした。

この時の僕のモチベーションは、前述のDogpatch Labsのようなコワーキングスペースを日本につくること。この事業がうまくいかなければ、僕は辞める、ということは色々なタイミングで彼にも伝えていた。

ビジネスをつくる、お金を稼ぐ

明確にツッチーと僕の役割は分かれる。彼はコワーキング事業や、あるいはお金を稼ぐためのデザインや実装に関する仕事の営業活動。僕は僕自身でもコネクションで単発のWebの仕事や、彼がとってきたスタートアップのプロダクトのデザインの手伝いなどをやっていた。

今思えば、ツッチーとコミュニケーションをとっていなかったわけではないが、会社としてのビジョン、それに向けての戦略・計画、そうしたことにはあまり時間を割けていなかったように思う。はじめからそれができる会社のほうが少ないだろうが、それにしても少なったかもしれない、
今のように立派な会社ではなく、少し嫌な言い方をしてしまえば「共同創業者にデザイナーがいるというスタートアップごっこ」だったのだとおもう。もちろん真面目にはやっているが、どこかスタートアップをやっていること自体に浮かれていたところがあった。

僕はひたすらお金を稼ぐための仕事をする。ある時にそれがとても苦しくなってしまった時があった。
その頃にもうひとつの悲劇。順調に進んでいたかに見えるコワーキングスペース事業のプランが崩れてしまった。これは色々なタイミングの問題や、僕らの経験や信用がまだ足りなかったということだろう。

Goodpatchからの離脱

当時にメンタル的に僕がやられてしまったことと、希望だった事業がうまくいかないとなったときに、離脱することを決めた。その期間、濃い時間だったが1年にも満たない期間だった。

僕とツッチーのやりとりの中で「会社そのものにはしがみつかない、事業がダメだったら会社もたたむほうがいいんじゃないか」という話をしたことがある。彼がそれを真に受けてたかはわからない。
少なくともGoodpatchという会社の生みの親はツッチーであり、僕はその授乳期を支えた人間のひとりに過ぎない。そんな僕が離脱をすることを選べてしまったのに対し、親が簡単に子を捨てることなんてできないだろう。
今でこそUIやUX、BXをデザインできる会社ではあるが、当時の彼自身もそれらの分野に決して精通してた人間ではない。そんな彼がその分野に可能性を感じ、Goodpatchを生かすどころか、とんでもなく成長させたというのは本当にすごいことだと思う。

その後の僕は

Goodpatchを抜けたあと、当時にTwitterで交流していたエンジニアに声をかけてもらい、その人と働きたいとおもってサイバーエージェントに入社した。たまに誤解を受けるので補足すると、サイバーエージェントに引き抜かれる形でGoodpatchを辞めたわけではない。

それから数年、Dogpatch Labsの衝撃から時間をあけて、場作りの会社としての株式会社ツクルバに入社し、開発チームの立ち上げに参加させてもらった。今はそこも離れ、サイバーエージェントに戻り、新しいチャレンジを今もやっている。

僕のこの歴史の裏で、着々といろんな波を超えて上場したGoodpatch。

僕には「したい」ことがあった。ツッチーには「やる」ことがあった。
その差は圧倒的な「意思」と「覚悟」が彼にはあったということだろう。

今の僕にもたくさん「したい」ことはある。でもまだ「やる」ことにはつながっていない。
彼ひとりで成し遂げた偉業ではないとはいえ、彼がいなければ成し遂げられなかった偉業であることは間違いない。

僕はGoodpatchの誕生を携わっただけで、Goodpatchの成長に寄与したわけでもないが、とても誇らしいし、彼を尊敬する。同時に負けてはいられないという気持ちもある。
同じトラックで競争したいわけじゃない、共創する日がいつの日か来ることを。

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この写真は2019年頃、渋谷のGoodpatchオフィスで。

明日の元気の素になります。