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【創作】病床と熱帯魚

男は病床に伏していた。立ち上がる気力すら無く、時には喀血し、枕元を血に染めたが、それを清めてくれる者は誰も存在しない。男には親兄弟も居なければ、友も居ない。多くの人々が男の普段の振る舞いに眉を顰め、苦言を呈して呆れては、男の元から去って行った。
男は孤独である。彼に残されて居るものは、読まれる事も無く、机の上に高々と積み重ねられた文庫本と、その前に置かれている淡水の入った瓶の中を泳ぐ、長い尾鰭をひらひらと動かす弱ったベタのみであった。
「お前も弱っちまったな。俺も弱っちまった。なぁ、どうだ。いっその事、お前さんの残った寿命を俺に全部分けちゃくれないか。」
男は息も絶え絶えに、そう呟いて自嘲した。いくら話し相手が居ないからと言って、物言わぬ魚に話しかけるとは。俺も随分と追い込まれたものだ。
そうすると、突如として、小瓶の中を泳ぐベタが頭を振るわせた。
「良いだろう。俺の数少ない寿命を分けてやる。その代わりと言っちゃ何だが、お前はこれまでの様なヘマをやらかすんじゃねぇぞ。お前のこれまでの行いを間近で見て来たが、どれも魚の俺ですら見てられないものだった。特に女の扱いに関してはな。次は上手くやれよ。」
ベタがそう言い終えた瞬間、男の目にはベタが水に溶け、ワイン色をした液体に成り代わるのが見えた。その液体が飛翔し、男の口の中へと入り込んできたため、男はその苦しさに四肢をじたばたと躍動させたが、やがて力尽きた様に動かなくなった。

男が目覚めると、そこには亡くなった筈の両親や、連絡の取れなくなった弟、自身の元から去って行った友人の姿があった。
ああ、あの苦しみは全て夢だったのか。全く悪い夢だ。布団から男が起き上がると、机の上の小瓶に入っているベタが水面に浮かび、事切れている姿が目に入った。男は徐に立ち上がり、机の前まで歩くと、小瓶からベタの死骸を摘み上げて、食べ終えたインスタントラーメンのカップなどが入っているゴミ箱に投げ入れた。
ベタの居なくなった小瓶の水は清流の様に澄んでいて、美しかった。
「お前が居ねぇ方がよっぽど綺麗じゃねぇか。」
男は呟くと、覚束無い足取りで玄関まで歩き、扉を開けて、姿を消した。

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