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金子薫(小説家)×水田典寿(造形作家)トークイベント 『壺中に天あり獣あり』刊行記念@二子玉川蔦谷家電/2019年4月8日②

動物

金子: 柳川さんが装丁の案として、最初に4人のアーティストを紹介してくださったじゃないですか。他のは結構きれいな、ガラスの造形作品だったりとか。
水田さんってガラスとかでも作ります?

水田: ガラスはあんまり作らないですね、いろんな素材を使うんですけど。でもガラスは好きなんです。すごく小さい頃からガラスのものが好きで、それこそやっぱり憧れがあって。自分の表現したい事柄はないんですけど、好きな世界とか見たい世界というのが割と透明だったりとか、繊細なものっていうのがあって。だからガラスの作家さんは割と好きな方いたりしますね。

金子:  ガラスはツルツルしてて、一方で水田さんの作品が、動物を作っているっていうのもあるんですけど、ざらざらゴツゴツしていて、触り心地が想像できるというか。これが一番いいなと思って。
水田さんのお家へ一回撮影で行ったんですけど、その時二人で動物の話をしたんですけど…なぜ動物が好きなんですか?

水田: 普通に小さい頃から男の子は虫とか動物とか好きじゃないですか、その延長線っていうのはもちろんあるんですけど。今、動物が好きって言うのとはまたちょっと違う感じなんですよね。それこそ、言葉で表現するのは難しくて変な感じになっちゃうんですけど…人があまり好きじゃなくて。僕、人を作ることってほとんど無いんですよ。そもそも人にそんなに興味がないっていうのもあるし、あとは、人ってなんかいろいろ考えちゃうのがすごく嫌で。シンプルがいいなっていうのは思っていて。自然ってやっぱりシンプルじゃないですか。そういうのもあって、動物に対する憧れみたいなものがすごくある感じですね。…憧れっていうのも若干違うんですけど、そういう感じがあります。

鳥とかは特に形としても好きなのと、自分がさっき言ったように、好きな感覚みたいなものとして、儚さみたいなものだったりとか透明感だったりとか、それでありながら、その強さ、みたいなものっていうのがすごく好きなんですよ。それが割と動物の中で言うと、鳥が近いかなと。なんていうんですかね。空を飛ぶと言う行為。何もないところを飛んでいるっていう、頼りなさみたいなものを、飛べない人間からするとすごく感じるんですよ。その中にある、寂しさみたいなものと、儚さみたいなものっていうのはあって。それにさらに、造形としての美しさが備わっているなって思うので、鳥を作ることが多いです。自分がそれを表現できているかどうかは別としてなんですけど。
金子さん、動物、好きですよね。今、ヒョウモントカゲモドキ飼っているんですよね。

金子:  あとベタと、アオスジアゲハの越冬サナギを。あいつ、全然出てこなくて。親蝶が産卵する夏に卵が出てくるじゃないですか。時期を逃すと、夏の間に蝶になれなかった奴が越冬するじゃないですか。日照量の問題とかで夏の間に出て来れない奴って、次の春まで持ち越しになるじゃないですか。その越冬サナギを。
家の近くのマンションに、アオスジアゲハのサナギがくっついていて。ずっと見ていたんですよ。マンションのエントランスの扉の隙間みたいなところに付いていて。これ、下手したら潰れるぞみたいなところに。それで、心配しながら見ていたんですけど。台風の日に、もしやと思って行って見たら下に落っこちちゃってて。これはかわいそうだと思って、家で台座を作って、そこにスポっとはめて、紐でくくって固定して。その時はそのサナギのケツがぶりぶり動いていて、サナギのケツがぶりぶり動いているって言う事は、中が詰まっているって言う事なんですよ。寄生バエとか、寄生バチとか、卵を見つけて、中身を食わせちゃうみたいな。そういうのが入っていない判定として、ケツが動くっていうのがあるんですよ。中が食い荒らされてたりとか中で死んでたりとか、中でぐちゃぐちゃになってたりすると、ケツは動かないんですよ。でもケツは動いてるから、おっしゃーと思って。固定して。絶対に生きている。でも四月になってもまだ出てきていなくて。部屋もあったかいし。東向きに窓があって、朝以外に日光が入らないっていうのもあるのかもしれないですけど。

水田: なんか今回の小説もそうですけど、蝶とか他の動物も、割と出てきたりするじゃないですか。それは逆に金子さんはなんでなんですか。

金子: 僕は人間が嫌いだからですよ。でも、人間が嫌いって結構難しい表現で、人間だから、人間が嫌いって言うのもおかしなものじゃないですか。本当は。わかりやすく人が嫌いとかって言っちゃうけど、結構僕は人が好きで、結局。なんか人間が人間を嫌いって言うのって面白いですよね。ライオンはライオン嫌いとかって言わないじゃないですか。なかなか笑っちゃいますよね。
それで、こう自分で言ってることを自分で言及するっていうのも、性格ですよ。なんか小説っぽいですけどね。性癖なんだろうな。
話を無理矢理関連付けると、人間の表情を描写しないんですよ、僕、あんまり。表情が苦手な作家で。ルイスキャロルとかももう明らかにそうで。動物も別にちゃんと体を描写していないですけれど。あとは絵本とかだとアンデルセンとか。人が出てくるんだけれど、顔面とか表情の動きとか、人間の心の機微を動作に仮託して書けない人間で。漱石なんかは、女性を描いたりするのがうまい。着物の折り目の入り方だったりとか、女の人の表情の変化だとか。人の描写をするのが上手い人と、そうでない人がいて。ドストエフスキーなんかは、ドストエフスキーマリオネット劇場というか、最初に一回はちゃんと描写するんだけれど、そこからは誰も何も描写されずに、ずっとカラマーゾフの思弁的なことを「いや、神はいないんだよアリョーシャ」とか言ってずっとベラベラベラベラ喋っていて。
人間の顔面とか胸像とかを作らないじゃないですか、水田さんは。試みたことありますか?

水田: 一応、全然あります。あそこにちょっとあったりとかもするんで、たまに作るんですけど。やっぱりうまく作れないんですよね。

金子: 見てないからでしょうね。動物はめっちゃ見てるけど。

水田: そうかもしれないです。と思うのと、だからすごい似てる感じですね。僕も表情作るのがすごく難しいなと思うのと、そもそもやっぱり作る気がそんなに起きないですし。
さっきクジラの動きとかを褒めて頂きましたけど、そういう何か好きな動物だと動きみたいなものが入ってるんですけど。それで作ってるうちにそこに持っていけるんですけど。人とかになると、全然入っていなくて、それを持っていけないんですよね。そうすると、試みる事は何度もあるんですけど、良くないってなって途中でやめちゃったりもするし。さっき言っていたように人が嫌いっていう言葉がすごい難しくて、ほんとに嫌いなわけではないとか、アレなんですけど。やっぱりなんかそういうふうに、何か入ってこないっていうことがあるかなって思いますね自分では。

金子: 僕はトカゲが出てくるって言う小説でデビューしてるんですけど、あれももトカゲが出て来なかったら大惨事というか。トカゲが出てきて、トカゲの世話をすることで、書く間はぐっと凝縮されて、何とかそれに引きずられる形で物語めいたものになって、終わったんですけど。多分あれトカゲがいなかったら、書けない書けないって悩んでいる青年の話みたいになって、クソつまらなくなってたと思うので。
僕は動物を書き始めてから、小説が書けるようになったといいますか。子供の頃から虫とかいろんなものを捕まえてきては飼ってきて。動物とか好きだったんですけど、中学生位で、音楽とか文学のほうに舵を切っちゃって、こっちのが楽しいぜ、みたいになっちゃって。動物が好きなことも忘れてるくらいほんとに十代の半ばから二十代の初めぐらいまでは、そんなに動物を飼ったりとか全然しなくなっていて。で、いざ小説を書こうとして、書いてみたらトカゲがバーンと出てきて、そのトカゲを見ていく物語になっていって。

水田: その時トカゲを飼っていたんですか?

金子: その時は飼ってないって言ってたんですよ。デビューしたときに。モデルとかが安易にあると思われるのは嫌だなと思って、河出書房の人に「今は飼ってないですよ」って言ってたけど、バリバリ飼っていて。

水田・金子: (笑)

水田: それが今飼っているヒョウモントカゲモドキなんですか?

金子: いやそいつは死んじゃって。冬に親父が窓を開けっ放しにして、その時、家に僕はいなかったんですけど…。寒風ビュウで逝去されました。

水田: そうですか。

金子: だから過ぎ去ったマイブームだと思っていたものが、やっぱり中心に深く入っていて。いざ創作をするとなると、こういうのが出てくるっていうのは、僕自身面白いなと思った体験で。トカゲが出てくる小説なんて読んだことがなかったですし、意外と。

水田: 二作目には鳥も蝶も出てくるし。三作目には驢馬。

金子: 四作目は機械の、ブリキの動物になっちゃったんですけど。ずっと動物が出てきていて。動物がないと今のところは書けないですね。何かしらいないと。今回も迷宮の中を歩いている。で、女の子がブリキの動物を作っているみたいなシーンがあったじゃないですか。読んでいる人がどう感じているかっていうのはわからないんですけど、僕はやっぱあの女の子が出てきて、ブリキとはいえ、動物のライオンだとかを書いている時が、一番楽しくて。やっと小説になるわと思って。あれが出てきてうまくいったと言う感じで。
人間って描写するの難しいですよ。人と人との関わりとか。人が動物を見て何か考えるとか、動物に憧れるとか。動物の動きとか運動とか、トカゲのウロコの一枚一枚とかは書いていて楽しいんですけど。人と人が交わり、成長し、みたいなのは一生書けないんだろうなって言うくらい、人は難しいですね書くのが。

作品の完成

水田:  小説とかってやっぱその終わりってどうやって決めるんですか?勝手に終わるんですか?

金子:  自然です。多分なんですけど、彫刻もあるじゃないですか。最後の、これ以上入れると変わっちゃうな、みたいな。そういうのがあるんじゃないですか。

水田: いやわかんないですそういうの。

金子: どう終わってるんですか?

水田: 僕は作っているときに、最終的にすごく自分の感覚なんですけど、何か自分の好きな空気をまとうかどうかが、最終的な完成と言う形になるんですよ。全然まとわない人もいて、すごいがんばるんです、だから。もしかしたら色を塗ったらいけるんじゃないかとか、ちょっとここを削ったら空気が、、、多分些細なことだったりするので、いつも思うんですけど、全然まとわなくてダメになることもあったりするんですけど。でも、それもすごくあやふやなものなので、掘ってしばらく見ていると、また触りたくなっちゃうんですよ。だから、できたらとりあえずあんまり見ないようにします。キリがないのと、やっていくうちにおかしな方向にいくことも結構あるので。

金子: 小説の推敲もそうじゃないですか?終わったと思ってから、僕はあまり期間は空けないですけど、期間を空ける人もいる。客観視できるように。書き終わってから推敲するまでに少し期間を空ける人もいる。推敲は無限に続くので、僕も終わらないですね。直していると良くなっているのか悪くなっているのか分からなくなったりとか。句読点の位置とか、誰も気にしてないだろ、みたいな。やりますけど。

水田: 自分の作品てまた読み直したりするんですか?

金子: トータルで読んだ事はないですね、最初から最後までは。たまに気になってふらっと読んで、意外とうまくいってるなって言う時と、全然駄目だって言う時がありますけど。たまにふらっと見て二、三行読んだりとかそういう事はありますけど。作品は目に見えないところに、しまってますね。
で、あれだ、空気をまとうまとわない問題ですけど、彫刻作品とか、絵画とか、あるいは歌とかも、強制的に出会って入ってくるじゃないですか。パンと全体像がわかって、物があったりとか、音楽も耳栓しない限り入ってきちゃうけど、小説って自分で開いて、頭から最後まで自分のペースで読んでいかないといけないから、オーラをまとっているかまとってないかみたいなのがわからないんですよ。だから自然と息切れするように終わるという感じであって、トータルを全部読み返して、全体の印象がこうだったからっていう把握の仕方ができなくて。

水田:じゃあそれは一文とかだったら。例えば一人の人のセリフが、その物語の全体のイメージというか、そういうものをまとっているみたいなのを感じたりはしないんですか。

金子: ありますあります。これ以上は蛇足になるなとか、これで終わったらっていうのは、自然とわかって。多分直感なんでしょうけど。いろいろやっぱり思い描いてるんでしょうね、作品のイメージとか。話の流れだったり、文章の終わり方だったりとか。すごく自然に終わります。

水田: でも書き始めるときには、全体のストーリーみたいなものとか、エンディングみたいなものは考えずに書くんですか?

金子: 考えてないです。転がって転がってストンと落ちて終わるような感じですね。

水田: へー。すごく僕的にはそれは近い感じはある。僕も全体像はいつも見えないんで。でも失敗はいつもわかるんですよ。成功はわからないんですけど、これは違うっていうのはわかる。なのですごく苦労するんですけど。あと僕は展示するときに作品を作って展示するっていうよりかは、その空間を全部作る感じをしているので、個展の時とかっていうのは。箱も、家具みたいなものも作っていたりするので、全体としてのものっていうのはすごく考えるので、その配置とかもすごく大事だったりとかして。そうなってくると、配置が正しいのかどうかって置いてみないとわからないですし、しかもそれが間違っているのがわかるんですよ。ここじゃないな、と。けど合っている場所がどこかわからないので、ひたすらに全部に置いてみてとか。やることが多いんですけど。
文章とかって、書き始めるとものすごく、詰まる時とかもありますよね。そういう時ってどう乗り越えるんですか?

金子: 書き直します。詰まったら、せっかく書いたし、みたいな思いがあるので、どこで捨て始めればこの作品は再起できるんだろうかみたいな。自分を甘やかして、一番直近の傷を探すんですよ。直近の傷を探して、ここから書き直せば全部うまくいくぞと思って書くんですけど、それでもうまくいかないことがあって。その時は全部没にして。やっぱり没になる作品は、没になる理由が最初のほうにあって。それは小説の空間の捉え方だったりとか、最初から駄目になる宿命を最初から背負っているんですよおそらく。

水田: 没になる作品って、その後復活することってあるんですか別の形とかで。

金子: 次の小説が、書き終わるまでは、保存していて、いつか何かで息を吹き返すことを祈りつつ置いておくんですけど、作品が出来上がっちゃったら、こいつが由緒正しい後継者だ、という気分になって、没は粛清します。

水田:  次、全然関係ないところで使ったりとかはないんですね。

金子: ないですね、それは。

水田: 僕は割とあるんですよ。作っていて、どうしても何かが違うと思って、とっといて、三年経つとそれが使えたりとか。素材として復活することもあるんですけど、その動物のままっていうことも。本当に些細な、色味が落ちたりとか、テクスチャーが少し変わったりとか、些細なことだと思うんですけど、割とそれで復活することがあるんですけどね。

金子:  書いてて、没にした作品って、没にしたばっかりの作品だから、結構現在進行形の作品に似ているというか、使い回せそうなシーンがあったりするんですよ。で、書くのが苦しくなってきて、この没の力を借りよう、みたいにコピペして持ってくると、やっぱり何か書いている途中のものって続きを書いていないものだから、広がる余地があるんですけど、一回書いちゃったものって、自分が持ってきたかったものもあったけど、そこには連れて行けずに終わっちゃったものだから、それを被せると、同じ末路をたどることになっちゃって。没をコピーアンドペーストして成功したことって一回もなくって。やっぱり捨てる勇気が、小説だと大事で。一回イメージを膨らませながら書いていたものって、そのイメージがくっついていっちゃって、結局そっちの流れのほうに話がいっちゃって、コピペする前は何通りかあった書き方が、一つに絞られちゃって、駄目になっちゃうことがあったりしますね。

水田: でもじゃぁ一つの物語が終わるまでは取っとくんですね

金子:いつか息を吹き返すかもしれないと思って(笑)

水田:作っていて、そういう事はありますよね。僕もいつもギリギリまで頑張っちゃうんですよね。でもやっぱり、駄目なものって、最初に空気をまとわなかったものって、駄目なものは駄目な時はやっぱりありますよね。なんかその境目とかもいつもわからないので。いつも、どうなるんだろうと思いながらやってるんですけど。

金子: そうですよね…。
本当に引くぐらいつまんないですよね。没になったやつを、うまく書けた後にどんなもんかと思って見返すと、引くぐらいつまらなくて。

続く

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