風の味

先日、久しぶりに地元に帰った時のことだ。
せっかくの帰省だというのにその日はひどく風が吹き荒れていて私は外に出るのを断念した。私は風が強い日に外に出ると頭が痛くなるのだ。

その日の夕食時の母との会話で、風が強くていやだなんて話をしていると母が「あなたは昔あんなにおいしそうに風を食べていたのに」といった。

風を食べる?なにそれ。思わず尋ねると、私は幼少期、風が強い日は大口を開けて風を食べていたという。いつもおいしい、おいしいといいながら風を食べていたんだと。

そんな記憶全然なかった私は興味深いと思いながら、暴風に向かって口を開けて風を一生懸命食べている幼い頃の自分に思いを馳せていた。

…すると母が笑いながら言うのだ。
「1回だけ、1回だけあなたが『今日は風がおいしくない』っていう日があったんだよ。〇〇海岸にいったときのことなんだけど。」
というのだ。

海の風の気持ちよさを物心がつくよりずっと前から知っている私にとってそれは変な話だった。考えたけれどわからない様子の私を見て母は言うのだ。

「あんなにおいしそうに風を食べる子なのに変だなと思って帰ってすぐ熱を測ったら案の定、39℃。インフルエンザだったんだよ。」

なるほど、なるほど。
つまりうまいことを言うとしたら、そのときのおいしくない風の味は実は風邪の味だったというわけだ。

まだまだ人間のチュートリアル期間の子供。体に起こったなにかしらの変化を味覚(風に果たして味物質があるのか知らないが)という非常にわかりやすく感覚的なものさしできちんと図り、そして自分を助けてくれる保護者に伝えられることができたというわけだ。人間とは、いきものとしてよくできているなと感じた。

私たち人間の脳はとっても発達しているから、経験、あるいは聞きかじりの知識なんかを通していつだってアップデートしている。そして年齢を重ねるごとに、人生の駒を進めていくたびに知識と理屈で身を固めていくものだと思う。人間のいいところである。

でも、だからこそそんな風になる前の、人間が人間になるよりずっと原初に近い、生物的本能に寄りかかり気味の子どもの感性は宝箱だと思う。動物が大好きな私が子どもを好きな理由はここにたっぷり詰まっている。動物と人間の狭間のきらきらしたいきものが(少なくとも私にはそう見える)、そしてその感性が動きが目線が行動がすべてがかわいらしくて仕方がないのだ。

人はみんな、その宝箱の中をちょっとずつ捨てたり交換したりしながら徐々に失って、その代わりもちろん別の素敵なものが手に残っていく。そうやって人間がより人間になっていくんだろう。人間って最初から人間というわけではなくて、だんだん人間になっていくから、へんてこで面白い動物だなと思うのだ。

おしまい

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