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夏目漱石著「こころ」と祈り

「こころ」の中の「私」は、先生から目方の重い遺書を受け取ったときから祈りがはじまったと言っている。それも自然にはじまったと。
「私」の人生に影響の深い人がじぶんの手が届かないところへ行こうとしていることを察して祈りはじめた。人は五感では認識できないものを感じた時にそれを探して祈りは始まるのではないかと思う。
「私」の目の前の父はとても落ち着いていてどこか遠くを見ている。この時の父は神との対話である祈りの世界にいるのではないだろうか。父から離れると「私」には不安がおそってくる。父という存在が自分が知らぬ間に遠くへ行ってしまう、つまり父を見送りたいという願いが叶わないかもしれないという不安をかき消すために祈りの世界に身をおこうとしているように思う。
そして目を串刺しにしても上手く読み進めない長い先生の手紙のたった1行が先生もまた自分から離れて行ってしまうという恐れが私を襲って、祈りははじまっている。
自分から離れていかないことを祈り始めている。

人が神仏に願いを乞う時は自分にとって今ないものをもとめている。一方で離れていこうとする、つまり喪失が目の前に迫った時に祈りははじまるのではないだろうか?

9年前の皆既日食の日私はひたすら祈りの中にいた。と思いたい。主人が苦しい日々を過ごしているその事実から逃げていた。振り返ると祈りとは真逆の行為だったように思えて自分を強く責める気持ちにしかなれない。祈り?

漱石は「こころ」で1人の人間に存在する矛盾を詳らかにした。人に普遍的に存在している自己矛盾を描きだそうとしている。明治という和洋折衷矛盾に満ちた時代を生きた2人の自死者のこころを描くことで読み手にそれは人の心であることを教えてくれている。自己矛盾という人の苦しみに満ちたこころを浮かび上がらせているのが「私」やその家族の祈りだと思う。祈りは「こころ」を詳かにすると思っている。

9年前、苦しみから逃れようそして大事な人が離れていってしまうという事実を受け入れたくないという私のこころを祈りが詳かにしたように今は思っている。