果たして人間は対話できるのか [進撃の巨人]より

こんにちは、いしいです。
先ほど、今月の3月31日で配信が終了となるGYAOでアニメ「進撃の巨人」Final Season 完結編 前編を見てました。

進撃の巨人、とてもおすすめです。

相変わらずの映像の迫力美、サウンドの効果的な使用、また物語のストーリー性に圧倒された自分ですが、今回は異なる視点で見ていました。

それは、果たして人間は本当の意味で対話ができるのか、ということ。

ここで言う、「本当の意味での対話」とは、お互いが考えていることを真に理解し、その意味や背景を思いやった上で次なる行動や方向性について議論することができるのか、と言う意味です。

今回の完結編では自分が考えただけでも、主要キャラクターを含めて4通りの考え方があると思います。

  • エレン(主人公)
    敵と対話などできない。蓄積した憎悪で敵を蹂躙する

  • ミカサ・アルミン(ヒロイン)
    敵と対話をしたい。憎悪を理解しながら、それでも対話を通して憎悪に向き合いたい

  • ハンジさん・調査兵団
    敵と対話できるのか、現時点ではわからない。いつの日か、その瞬間が来ると信じる。そのためにも、今の虐殺は止めなければならない

  • ジーク・イエレナ
    対話などできない。ただ虐殺もできない。自分達の安楽死にて解決する。

個人的にはハンジさんと同じ思いです。
例え今日に対話できなかったとしても、その努力をやめてしまっては人が人でなくなってしまう、そう感じています。

この他にも、アニやピーク、マーレ軍や虐殺されていく一般市民など、色々な考え方があると思いますが、少なくとも上記の4通りは明白でしょう。

今回の完結編・前編では、幼少期あれだけ仲の良かった、共に時間を過ごしたエレンとミカサ・アルミン同士でさえお互いの考えを真に理解し、人間本来の"良い方向"へと行動の方向性を向けることができなかった。
実際、劇中でも飛行艇の中で決別したシーンがあったはずです。

そんなの、アニメだけの話と思うかもしれませんが、では現実世界とどれだけ違うと言うのか

世界に目を向ければウクライナ戦争など、"対話ができるのか"という観点でのいい例です。素晴らしい大学を卒業し、幼少期からいい環境で育った"大人たち"ですら、ロシアvsウクライナの関係を改善できていません。そして一方的な憎悪が双方に蓄積し、結局いつの日かまた同じようなことを繰り返してしまう。

NATOだったか国連だったかEUだったか、どこかのお偉いさんが去年の開戦当日に「今までで一番悲しい瞬間だ。いますぐロシア軍に撤退して欲しい」といっていましたが、あれだって対話ができなかった瞬間そのものではないのか。

もっと身近な例で言えば、結婚と離婚だってそうでしょう。自分は学生で、まだ結婚する歳ではないかもしれないけれど、あれだけ「誓います」と誓い、将来を共にする決心をし、そのために対話を通したはずなのに、結局離婚する人々がいる。

同じ国、似た価値観、同じような時代を生きた二人でさえ、対話ができずに離婚してしまうと言う現実。
(まあ最も、対話を通したから離婚という道をとれた、という逆説的な見方もできるかもしれませんが)

人間って真の意味で"対話"をすることができるのでしょうか。もしかしたらそのための教育なのでしょうが、自分にはその意味で"本当の教育"ができるのか、そう考えてしまいます。もちろん、その努力を行なってしまっては、またアウシュビッツと同じことが起こるので必要なのも真に理解しているはずなのですが….

そんなことをつらつら考えながら、進撃の巨人を見ていました。

いいねぇ、進撃の巨人。中学生のとき初めて見始めた内容ですが、自分の成長とともに内容が複雑になって、理解できるようになって、大好きです。

完結編 後編は秋だそうで…とても楽しみです(劇場の方でもいいのに?)


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