見出し画像

冷笑が強い時代だからこそ

お笑いコンビ「オードリー」の若林正恭さんが書いたエッセイ集「ナナメの夕暮れ」を読んだ。ずいぶん以前に図書館で予約していて、長く待たされてからようやく借りることができた。でも、予約した時から時間が経ちすぎてなぜこの本を予約していたのかは、もはや思い出せない。まあよくあること。ともあれ、読んでみて、とても面白かった。最初は軽めの文章でさくさく読んでいたのだけど、徐々に深く納得させられる一説に出合い、「ああ、この人の書くもの面白いなあ」と素直に楽しめた。

本の中で若林さんは、趣味が日本語ラップ・プロレス・純文学と述べ、それが「中学生かよ」と揶揄されることもあると説明する。ただ、彼は「普通に熱いものが好きなんだな」と気づく。そういうものが「腐りがちな僕の心に何度も何度も命を吹き込んでくれた」というのだ。そしてここからの展開がすごい。

冷笑が強い時代だし(それはどの時代もそうかもしれないけど)、熱さは冷笑主義者の標的になりやすい。そして、自分だってそういった側面を持っている。冷笑主義者が、なぜ冷笑し続けるかというと自分が冷笑されることに怯えているからだ。冷笑は竜宮城だ。温度の高いものに、外野から冷や水をかけ続けて自分では何もしない。そして、ふと気づいた時には白髪だらけが成れの果てだ。近頃、気づかないうちに出る杭になる時に必ずかけられる冷や水に怯えていたのかもしれない。

コラムの中で何度か冷笑や揶揄というものへの考えが記されている。若林さん自身、冷笑・揶揄すれば笑いが取れるといった考えがあったようだ。でも、出待ちで著書を持って待ってくれているファンのためにも、「冷笑の笑いは違うのではないか」と思い始めたそう。

そしてお父さんを亡くされてからは、本格的に冷笑・揶揄を卒業しなければと思い始めたという。というのも、お父さんが死の間際に「ありがとな」と言いながら痩せこけた手でお母さんと握手している姿を見たことが大きく影響している。

その時にやっと、人間は内ではなく外に向かって生きた方が良いということを全身で理解できた。教訓めいたことでもなくて、内(自意識)ではなく外に大事なものを作った方が人生はイージーだということだ。外の世界には仕事や趣味、そして人間がいる。内(自意識)を守るために、誰かが楽しんでいる姿や挑戦している姿を冷笑していたらあっという間に時間は過ぎる。だから、僕の10代と20代はそのほとんどが後悔で埋め尽くされている。

若林さんは「価値下げによる自己肯定は楽だから癖になる」とも述べる。

ここでの「価値下げ」というのは、海外旅行やバーベキュー、サークル活動、一人旅など他人が楽しく盛り上がっていたり真剣に取り組んでいたりすることに対して、みっともないと片付け、SNS上でコソコソと揶揄するようなスタンスを指すようだ。

そうやって他人がはしゃしでいる姿をバカにしていると、自分が我を忘れてはしゃぐことも恥ずかしくてできなくなってしまう。

その結果、スタバにいって「グランデ」と言えなくなってしまうという。

誰かに‟みっともない“と思われることが、怖くて仕方がないのである。そうなると、自分が好きなことも、他人の目が気になっておもいっきり楽しむことができなくなってしまう。それが行き着く先は「あれ? 生きてて全然楽しくない」である。他人への否定的な目線は、時間差で必ず自分に返ってきて、人生の楽しみを奪う。

他人を否定し、人が夢中にやっている行為の価値を下げていると、まわりまわって自分の人生を生きづらくしてしまう。何をしていても、他人からどう見られているかが気になり、夢中になれなくなってしまう。結果、なんとか自分を肯定しようとして、他人や物事に対する価値下げをさらに加速させるようになる。

そうなると「地獄のスパイラルに突入」するという。楽しいことがない世界をさまようゾンビとなり、人前で愚痴や弱音を口にし、生きてても楽しくない状態に他人を巻き込もうとする。

この状態を脱するために、若林さんはペンとノートを準備することを薦める。そして「肯定ノート」を作る。他人を肯定するという行為はなかなかレベルが高い。であれば、まずは恥ずかしがらずに自分を肯定する。やっていて楽しいことを徹底的に書きこんでいく。実際、若林さんは散歩やアメフトを観るといった自身の楽しみを書いていったらしい。

なぜ、そんなことを始めたかというと、‟自意識過剰のせいで、自分が本当に楽しいと思うことに気づいていない”という予感がしたからである。
そうして自分の好きなことが分かると、他人の好きなこと(趣味)も尊重できるようになる。今までだったら、「そんなベタな趣味恥ずかしい」とスカしていたのが、どういったところが魅力なのか真剣に耳を傾けるようになった。
今までの自分だったら「急にゴルフなんて始めたら、馬鹿にされる」と気にしてやってなかったと思う。で、実際に価値下げ野郎共の冷や水も随分浴びた。 ~中略~ でも、僕がそれを気に留めなかったのは、価値下げ野郎共が何に怯えているかよく知っているからである。

若林さんが30代半ばで肯定ノートを書くことになる理由が、「どうしても今回の生で世界を肯定してみたかった」のだという。そしてノートを通して普段接する人たちの優れている部分を書きまくった。こうして他者への肯定が出てくるようになるにつれ、誰かを否定的に見てしまう癖が徐々に矯正されていったというのだ。

そうなると、自分の行動や言動を否定的に見てくる人が、自分が思っているほどこの世界にはいないような気がしてきた。「だから物事に肯定的な人は、他人の目を気にせず溌溂と生きているように見えるのか」
自分の生き辛さの原因のほとんどが、他人の否定的な視線への恐怖だった。その視線を殺すには、まず自分が‟他人への否定的な目線”をやめるしかない。

本の終盤、若林さんは「ぼくは、この国に蔓延している冷笑文化がずっと嫌いだった」と書いている。

自分に失望している人は、希望に満ち溢れた人を妬む。ネットやSNSでそういった人たちを攻撃しないと、自分が保てなくなる。可能性の幅が広そうな人を揶揄しないと、自分が悲しくて仕方ないのだろう。だから、熱さは嘲笑の対象となり、反対に現実を見極めているような妙に達観した人がネット上では持て囃されている。

若林さん自身も、実年齢ではなく、気持ちの年齢が年取ったと感じることがあるという。そして理想論を語る人に下劣な感情を抱いてしまう。「その時初めて冷笑野郎共の気持ちがわかるような気がした」と書いている。

この本を読んで、こんなに真摯に生きている人はそういないんじゃないかと感じた。と同時に、自分が生きていく上でも、冷笑野郎に成り下がってしまわないよう、肯定して生きていくことの大事さを教えられた気がする。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?