誰の役にも立てないなんて…

私も一時期、外道にまで落ちたと感じるような人生から更生できたんじゃないかと思っていた時期があった。

その頃の私は仕事的にはフリーターで、飲食店で長期間労働をしていて、自分でも何かの役に立てるようになった気がしていた。個人的に好きな事としては、バイクにハマっていた。

が、やはり40代前になって「こんな生産性のない仕事」をしているのが不安になった。時間と空間に少しのサービスを添えた、「消費」しかない仕事と言う風に感じて来た

(飲食業でも厨房とか高級店なら違います、又、飲食業の方々には失礼な言葉ですが、当時の私が感じた事です)

結果から言うと、介護と准看の学校に行ったが、後に行くほど消費しかなかった。看護に至っては、国民から集めた保険税を、いかに老人に突っ込んで利権絡みで金を得るかと言う感じになってます。

話は飛んだけど、自分の更生・生きなおしの過程で暗い影が見えてきた。私が生き甲斐を感じていた部分が、体力低下と能力面で得られなくなって来たんだ。

簡単に言えば自己肯定感。私もどこから毒されたか、フリーター時代は凄い社畜脳になっていて、自己犠牲しながら仕事場に貢献しているような働き方をしていた。

年齢的にそれが厳しくなって、途中で専門性と資格を得たけど、肉体労働だと言うのは同じ事。自分が健康でない事もあるし、それまで無理な働き方をして来て、体にガタが来たんだろう。

そうなってくると、若さと体力で人に貢献するような働き方ができなくなる。そこで自己肯定感が得られなくなってくる、の負のループに陥るようになる。

日本社会ってなぜか、経営者目線で自己犠牲しながら働いてる底辺労働者と言うのが意外に多くいたと思うんだけど(時代的に古いかもだけど)。そういう人ってだいたい「戦力外になった体と精神以外、何も返って来なかった」状態になると思う。

例外を言えば、とにかく体力がある人と病気1つしない人。使えないけど介護の夜勤日勤やって、同世代の世話しながら良い生活している老人もいる。フルで働いて減額されても、年金まで貰えればそれなりの金にはなる。

ただ、そういう人は1部の人間で、特に持病持ちやメンタル不全者は、若さと体力と健康を犠牲にするような働き方(家庭生活でも同様)は、やっては行けない。

今はネットで承認欲求と自己顕示欲は満たせるようになっているが、自己肯定感ってもっと高次の欲求だと思うんだよね。人の役に立つことでと言う同期が、社会の為にもなる。

何となく自分の事しか考えない人が増えてきた気がするのは、自己犠牲を伴うことには見返りがないのが周知されて来たのか、承認欲求で代替できるようになったからか。 

あと、自己肯定感にも言えることは、自分への期待値を下げること。私が自己肯定感で苦しんでるのは、同世代の従兄弟とかが医者とか海外生活とか、かなりレベルが高い人達で、私なんかに見切りを付けてると思われるから。

私はとにかく恥の概念を背負って生きて来たけど、私の母親・専業主婦なのに子育てもできない女のせいではある。周囲の親戚と姉が、高等教育を受けてエリートとして生きて行く中で、長期引きこもりの底辺って言うのはかなり苦痛。

数年前に大した額では無いが、持ってる土地に借り手が付いて、「地主」と言う肩書きができて、少しマシになった。

問題なく事が進めば、2年後にはアーリーリタイヤできるくらいの収入が入るようになる。かけても良いが、そうなったらまた私の言う事は、手のひらを返したように変わるだろう。

どの道、私は全ての苦痛は日本の貧困化が原因だと思っているけどね。今のままの日本にだって、尽くしたってなんも返って来ないよ。

外国人で代わりになる仕事の人達は、若くなくなったら、若い外国人と競争になってしまうからね。肉体労働や底辺職で、自己犠牲で自己肯定感を得るのはやめよう。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?