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河瀬直美の東大祝辞と坪井直のことば

河瀬直美の東大入学式での祝辞に物議

 映画作家の河瀬直美氏が、4月12日に行われた東京大学入学式で祝辞を述べ、その内容に波紋が広がっている。河瀬氏といえば、昨夏開催された東京五輪の公式映画の総監督であるが、その撮影の様子を密着取材し、昨年末に放送されたNHKの番組が虚偽字幕問題で批判の的となり、また河瀬氏自身もそれらを巡る言動に疑問の声が向けられていた
 そんな河瀬氏が東京大学でスピーチを行うとあって全国的な注目が集まるのは必至であったが、そのなかで物議を呼んでいるのは、2月から続くロシアによるウクライナ侵攻についてである。少し長くなるが、当該部分を引用する。(全文はこちら

 先ごろ、世界遺産の金峯山寺というお寺の管長様と対話する機会を得ました。(中略)また、この管長さんが蔵王堂を去る間際にそっとつぶやいた言葉を私は逃しませんでした。
 「僕は、この中であれらの国の名前を言わへんようにしとんや」
 金峯山寺には役行者様が鬼を諭して弟子にし、その後も大峰の深い山を共に修行をして歩いた歴史が残っています。節分には「福はウチ、鬼もウチ」という掛け声で、鬼を外へ追いやらないのです。この考え方を千年以上続けている吉野の山深い里の人々の精神性に改めて敬意を抱いています。
 管長様にこの言葉の真意を問うた訳ではないので、これは私の感じ方に過ぎないと思って聞いてください。管長様の言わんとすることは、こういうことではないでしょうか?例えば「ロシア」という国を悪者にすることは簡単である。けれどもその国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?誤解を恐れずに言うと「悪」を存在させることで、私は安心していないだろうか?人間は弱い生き物です。だからこそ、つながりあって、とある国家に属してその中で生かされているともいえます。そうして自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要があるのです。そうすることで、自らの中に自制心を持って、それを拒否することを選択したいと想います。
(中略は引用者による)

 この中で特に太字で示した部分に疑義が集まった。それもいくつか抜粋する。

 ”「喧嘩両成敗」的思考に逃げ込んで、自分の立ち位置を曖昧にしておく方が簡単なのでは”(菅野志桜里/朝日新聞デジタル・コメントプラス
 ”侵略戦争を悪と言えない大学なんて必要ないでしょう。”(池内恵/Twitter

 世界中で報道される内容を見比べても、ロシアによるウクライナへの「侵攻」であること、人道を無視した蛮行が繰り返されていることは明白で言い逃れようがない。また、たとえロシア(プーチン氏)側からの見え方、「正義」があったとしても、必ずしもそれをウクライナや国際社会のものと対等に並べる必要はない。あくまで事実を前提に価値判断を下すのはそれぞれの国であり個人だ。そのように考えれば、「渦中の人」であったがゆえにやり玉にあげられやすい状況であったとはいえ、これらの批判は当然のこととしてうなずける。

いま考えたい「ピカドン先生」坪井直のことば

 一方、河瀬氏の発言から思い出したことがある。それは昨年10月に亡くなった、広島での被爆者・坪井直(すなお)氏のことばだ。坪井氏は20歳だった1945年8月6日、爆心地から1.2kmの位置で被爆し、頭から背中にかけて大やけどを負った。一命を取り留めた坪井氏は戦後、後遺症と闘いながらも数学教員となり、自ら「ピカドン先生」と名乗って中学や高校の教壇に立った。92年以降は核廃絶を訴える被爆者運動に本格的に参加し、16年には現職の米大統領として初めて被爆地を訪問したオバマ氏と手を取ってことばをかける姿が話題となった。そんな坪井氏が生前、広島ホームテレビの取材に答えていた。

 そのなかで非常に印象的なことばがある。

 どういうことがあっても、手を繋がにゃいかん。何があっても手を繋ぐ、それが第一なんであって、少々わからんことがあったり、意見が違うことがあったら、本当に腹が立つだろうが、立ってもいいから、手だけは伸ばせ。手だけは伸ばせ。それが私の考え。それが人類の役目じゃろう。

 96年の生涯の多くを核兵器廃絶運動に捧げ、その晩年に遺したことばだ。一発の爆弾に人生を滅茶苦茶にされた坪井氏が、共感を持って、落とした当事国の代表者と手を繋げるわけがない。では何が彼をそうさせたのか。それは「連帯」ではないだろうか。
 戦後社会を生きるなか、二度と同じことを起こさせないためには、憎しみだけを抱えているわけにはいかない。どう抗おうとも、同じ世界に身を置く以上、未来は共につくるものだからだ。そうなれば、納得できないことが山ほどあろうが、共に生きることだけは、手を繋ぐことだけは、諦めてはいけない。それが彼の「ネバーギブアップ」であり、連帯というものではないだろうか。ただ価値中立的な河瀬氏の発言とは似て非なるものだが、批判する人にも欠けている視点だ。

共感と連帯をもって

 現実に戦禍が広がるなかで、手を繋ごうというのは無理な話だ。何度でも書くが、あれはロシアの「侵攻」であり、その行動は正義にもとる。しかし「その後」を考えるにあたって、私たちは連帯を頭に入れておかなければならない。仲間外れをつくって描く未来には、また必ず悲劇が起こる。
 共感が必ずしも悪いわけではない。共感は人の心に訴えかけ、その行動の原動力になる。今回ウクライナやその避難民支援に対してかつてない規模の寄付が集まったのは、まさしく共感の力だろう。しかし、共感だけに重きを置けば、ひずみが生まれる。あえて彼らを「避難民」と呼び、その他の「難民」と分けるのはなぜか。アフガニスタン、イエメン、ミャンマー、エチオピア――世界のいたるところに紛争があるなか、なぜウクライナだけなのか。国内の難民認定率の低さはこのまま見過ごしていいのか。
 共感のみに偏らず、同じ社会を生きる者として責任を引き受けていく。その冷静な眼差し、連帯こそが、いま必要とされる視点ではないだろうか。坪井氏のことばは重い。

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