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短編小説 | 酔生の虫を飼う

 恋をした。夢の中の青年だった。
 彼は美しい日焼け肌を持ち、浜辺で暮らした。
 浜辺へは決まった道のりがあった。夫の横顔である。小人となって、夫の顔を歩いて行った。

 寝室の明かりを消す。と、スイッチを切り替えたようにカーテンの隙間が灯る。街灯の明かりだ。その薄明かりに夫の輪郭がほのかに白んで見える。それが道だった。

 夫の五分刈りの頭。見ていれば感触が分かる。芝生を踏むような弾力がある。ぼうっと眺める。と、いつしか小人となった自分がそこに立っている。坊主頭の小さな惑星、その側面に立つ小さな自分。転げ落ちないように球体の芝生に掴まった。そしてロッククライミングのように上を目指した。

 登りきると芝生も戸切れる。夫の額の上に立っている。目の前にはずっと向こうまで、白い道がゆらゆらとのびている。その道を進む。

 頭髪よりも高く茂る、眉毛の間を通った。高い鼻筋の坂を上り、分厚い唇を跨いで歩いた。顎の崖を飛び降り、すると平野が広がっている。胸板と呼ぶには薄い、骨ばった夫の胸部だった。寝巻の薄いTシャツの下には、胸の毛が茂っている。踏めば、足の裏がふかふかと沈む。

 平野を進んで行く。と、脇になだらかな下り坂がある。その坂を滑って降りる。すると夫の体の向こう側へ出る。つまり夫の脇腹の辺りの、ベッドの上に下り立つことができる。そこが砂浜だった。そこまで行くとまどろみもずっと深くなって、すっかり夢の中に落ち着いている。

 夢の砂浜はいつも薄い曇り空だった。真っ白で目映い。しかし暑くはない。そしていつしか、目の前には人懐こい笑顔をした青年が立っている。

 夢のうちには楽しさの景色だけが、メリーゴーランドのように途切れることがなかった。物事の論理的な動きはなく、いっさいは喜びとときめきの眩しい陰影だけ。それが絶えず音楽の波のように過ぎていく。

 しかし夢であってもやがて日は暮れた。夢に選択はなかった。観るものの意識は介せず、日暮れを境に夢のすべては一斉にあるべき終着へと向かった。コウモリの群れが空をさらう。日が水平線に沈む。抗えない力に引かれて同じ道をたどって帰った。肉のない胸を進む。顎を登り、口、鼻を越える。五分刈りを滑りおりるとそこではたと目が覚める。カーテンの端は水色に、部屋は深い群青色に、朝が来ている。夫の横顔も、山ぎわのようにしてほんのりと姿を取り戻してくる。


 夫がコーヒーを淹れている。朝食は終えて、食器が水滴を纏って水切りへ並べられている。窓から入る、朝の強い日がリビングやキッチンを光らせていた。地の底か空の上か、どこかで巨大で透明な歯車が回る。そのように、強い力が働いて一日が動き始めている。

 ノノ子は両肘を抱えた。朝日の風景は肌寒い。風邪でもひいたように額が重い。

「ノノさん、今日の気分はどう」

夫はそう、淀みなく尋ねた。柔らかく丸みのある声だった。しかしどれだけ優しい声でも、ノノ子には不快だった。

「最近、だいぶまし」

穏やかになるよう努めた。それでもやはり苦痛だった。根拠のない不調は測りようがない。それが感情ならなおさら見えない。だからこそ夫はいつも知ろうとする。気色を覗く。言葉で触る。丁寧な手つきでファスナーを下ろすように。

 隠れるように夫の背後へ回った。ワイシャツからは淡い柔軟剤の香りがした。それはやはり朝だった。巨大な歯車の気配だった。

 ノノ子はシンクの蛇口を捻り、両手を濡らした。その水滴で額と両頬を湿らせた。

 夫は立ったままコーヒーに口を付けている。青白い頬は剃りたての鬚に黒ずんでいる。しかし唇だけは血色よく紅い。ネクタイはきつく締め上げ、見ているだけで息苦しい。

 夫は職場のようにきびきびと動いた。きょとんとした目は滅多なことでは動揺しない。寝坊した、牛乳をこぼした、食パンを買い忘れた、服が決まらないなど、そういった細々とした問題に逐一騒いでふさぎ込み、寝室に引きこもるノノ子をよそに、夫はそのきょとんとした顔のまま、粛々とノノ子に代わりそれらの問題を片付けた。文句も小言も彼の口からは聞かない。そしてどんな問題が起こっても、それらを片付けきまった電車に乗っていった。

 夕方、思ったように仕事も家事もできなかったと、夕飯をストライキすることも、ノノ子には珍しくなかった。そして、ノノ子はいつも夫が帰宅してから惑乱した。

 夫はノノ子をソファに座らせ、温かい飲み物を淹れた。そして隣に座り合う。夫の、ネクタイが外されたシャツは外の香りがした。土埃か、汚れた大気か、通勤電車の黴の匂いか、それらの香りは総じてノノ子に小さな灰色の歯車を思わせた。

「もうだめ、離婚したい」

夫は、ノノ子の極端な嘆きにも穏やかに頷いた。

「うん、うん」

「一人暮らしの方が気楽」

「そうだね」

「自由がない」

「たしかに」

「楽しいこともさ」

「ないね」

「私、浮気してる」

「そうなの?」

「夢だよ」

「夢でか」

ふっと、夫の息に失笑が混じる。それが馬鹿にされたようで、ノノ子は敏感に声を落とした。

「でも、夢で見るってことはそれが本心ってことだよ」

「そうなの?」

夫はノノ子の意気に合わせ、瞬時に神妙な顔を作った。

「それで、」

その夢を毎日楽しみにしている。その楽しみを糧に生きているというところまでは、ノノ子も口へ出せなかった。

「それで?」

「だから、別れたい。」

「うん」

青年との夢を見始めてから、確かにノノ子の神経はいくらか安定していた。

 夢で得た幸福は半日続く。何がどうなって、どのようにして青年と過ごしたかは忘れるが、それでも青年の微笑みと好意の事実が、現実での生活をうっとりと潤わせた。夕方になるにつれその効能も切れゆくが、また夜が来る、夢があると、秘かな希望に耐え忍ぶことができた。

 しかし潤いは心まででとどまった。それを生活の充実に活かすまでには至らなかった。生活が思うように行き届かないと、ノノ子はやはり惑乱した。

 夫が一人で料理を始めると、ノノ子の機嫌も元通りになった。続いて申し訳なくなる。そのため、食卓ではいくぶん素直に話せた。

「一日が終わるのが怖い」

そんな妻の言葉に、夫は煮つけを箸で割りながら頷いた。

「そうだね」

「ずっとこうやって、また変わらない三十年を繰り返すだけ」

「うん」

「明日、すごく楽しいことが起こって、それがずっと続いて」

「いいね」

「海辺の、小さな家で暮らして。毎日友達が遊びに来て。たまに出かけたり」

と、そんな希望を並べ終えると、ノノ子はとたんに箸を止めて俯いた。夫は黙々と煮豆に箸を向けている。

 子供じみて、馬鹿げたことを口走ったと後悔した。

「私っていなくてもいいよね」

という問いかけが、言いたい、言ってはならないと何度も口の辺りで動いた。

「じゃあ思い切って旅行に行こうか」

冗談でもいい。そんな言葉は出てこないものだろうか。ノノ子は夫の鈍感を軽蔑した。そしてその軽蔑はすぐに自分へと向けられた。卑屈になった。夫に見あやまれている気がした。自分の夢想も破滅願望も、ただの戯れに過ぎない。日々の倦怠と退屈を埋める自慰に過ぎない。だから夫は、自分の言葉を冗談にもせず真にも受けない。また始まったというように。

「夕方に悲しくならない方法ってあるのかな」

ノノ子は箸で味噌汁を掻きまわした。埃のように白い沈殿が舞い上がった。

「それはね」

と、夫は豆を噛みながら言う。

「よく眠ることだよ。精神的な不調の大半は脳の疲れ。よく眠れば不安もなくなると思う」

夫の箸の動きは無駄がなかった。的確に食物を分解し、口へ運ぶ。それと同じように、ノノ子の問題も的確に分解され、照明のもとに広げられているような気がした。

「睡眠の質を上げるには肉体的な疲労が適切らしい。ジョギングとか散歩とか、まずは軽い運動から始めてみるのはどう」

陳腐な悩みに陳腐な答えだった。ありふれた答えなのはありふれた問題だからだろう。ノノ子は再び沈みゆく味噌汁の白濁を、黙って眺めた。続いて、その味噌汁に飛び込む、小人の自分を思い描いた。

 この味噌汁の泉は麻薬の成分を含んでいる。麻薬の湖で泳ぎ、脳を洗うような幸福を得よう。幸福のままに湖を泳ぎ、どこまでも潜ろう。そして湖の底に沈む黄金を見つけ、そして得られるのは少し豪華になった似たような生活だろうか。

 と、動きの止まっている彼の箸に気が付いた。ノノ子は目を上げた。

「でも、僕はそんなノノさんもいいと思うけどね」

夫は真っ直ぐこちらを見て、そう言いのけた。

「そんなって、どんな?」

ノノ子は一層声を落とした。

「それは、その、生きるのが辛そうな」

「そう?」

「つまりね、ノノさんはそのままでいいってこと」

そう言うと、夫は顔色変えず食事を再開させた。

 これだ。と、ノノ子は睨むように机の隅へ視線を落とした。

 この、そのままでいいという提唱が悪い薬だ。まるで点滴のように体に注がれる。麻酔のように鈍らせる。決定的なのは、私はこの、このままの私を嫌っている。愛想が尽きている。うんざりしている。ありのままの私ほど、面白くないものはない。そうして年を取っていく。ありのままでいいと言い続ける老婆になる。それをそのままでいいというのだろうか。

 ノノ子は味噌汁の椀を抱えるようにして持ち上げた。

 ならば、これから私が思うままに動いても、夫は認めるだろうか。私が自分に従えば、この目の色は変わるだろうか。

 静かに汁の上澄みを啜った。冷たい塩の味だった。


 その晩も夢の砂浜へ向かう。

 頭をよじ登り、眉間を抜け、顎を飛び降り。

 砂浜には青年の他に彼の友人たちも集まった。

 彼らと日がな砂浜で遊び、暮れても帰らせてくれる様子はなかった。もとより帰るのが忍ばれていた。夢の経過も帰る方に向かない。コウモリの群れは現れず、赤と紺の入り混じる空を静かに眺めた。

 初めて、夢のなかでの夜を迎えた。浜沿いの小さな宿場町を団子になって歩いた。友人の一人が宿屋のならびに下宿を借りているらしい。ほの暗い町角を歩くのはそれだけで愉快だった。街灯は力なく温かい。それらが照らすのは足元だけ。先が見通せないのも、見通せないために身を寄せ歩くのも、心地よかった。

 下宿は古い町家づくりだった。部屋は物置のように狭いが、焼杉板の壁が背高く吹き抜けとなり、なかば梯子のような急な階段を登ると小さなロフトもある。六、七人では手狭だが、窮屈に身を寄せ合って安い酒を口にするのは、どこか肉体的な満足を期待させる、愛おしい高揚があった。

 やがて夜も更け、それぞれは乱雑なタオルケットや毛布に身を包ませるうち、ぽつりぽつりと眠り始めた。ロフトの同じ布団に、かの青年も潜り込ませてきた。

 暗がりとなり、青年はゆっくりと身体を乗せてきた。周囲の友人は誰も眠っている。

 青年の脇腹から背にかけて、輪郭を確かめるように撫でた。青年の体は思うよりもかなり細い。そして軽く、遠い感じがした。それでも確かに、青年が自分の体の近くで動く感触があった。

 布団の上の、青年の体を見下ろした。日焼けの肌は闇の中に光沢がなく、ただ薄黄色の浅黒い朽ち木のように横たわっている。肌に潤いはなく、健康的な胸の厚みも失われている。触れると皮膚は薄く、肋骨の数が分かるほど脂肪がない。そこに、唇で触れてみた。すると、神経を弾くような深い刺激を感じた。その瞬間だけ、震えとともに自分が失われたようだった。

 そこには、夫と行うような互いが持つ不浄さやもどかしさがまるでなかった。まるで自分と青年の神経を一つにつなげて電流を流すような瞬間的な快楽の反射があった。

 ノノ子は微かに気付き始めていた。青年は、自分ではないだろうか。少なくとも、体は自分のものと違わないように思える。

 快楽の時間は火花のように過ぎてしまった。終わってしまえば写真を見るように他人事に思えた。あった感覚は遠のいていった。静かな自分の視点だけが残っていた。

 おもむろに、青年の指先が口のなかへ差し込まれた。コロンとした舌ざわりに、何か入れられたのだと分かった。それを手のひらに吐き出した。白いカプセル錠だった。指先で触れると、繭のように柔らかい感触だった。

 青年は人懐こい笑顔で、その薬を呑み込むように言った。再び口に含んだ。唾液に繭が柔くなる。次第に溶け、舌の上で広がる感じがした。残ったのはふわふわとした舌ざわりだった。綿毛のようだが、所々に小骨のような繊維質も感じる。すると、その繊維質がざわざわと動き始めた。あわててそれを吐き出そうとした。

「駄目だよ。飲み込んで」

青年は口を押えた。

「うえ、これなに。動いてる」

青年の手を払い、布団の上に吐き出した。それは、小さな虫だった。肢の長い虫である。

 虫は、布団に落とされるとすぐに器用に立ち上がった。そしてまとう唾液を糸状に光らせながら、布団から木床へ飛び降り、身を隠せる場所を求め消えていった。

「ああ、逃げちゃった」

「なに、なにする気」

「鎮静剤だよ」

「虫だった」

「薬だ」

「なんで」

「苦しそうだから」

「うそ、苦しくない」

「苦しいよ。生きてる限り、どこか苦しいはずだ」

そう言われ、続く言葉が出なかった。

 青年は虫を探すようだった。裸のまま、床を這いながら言った。

「子供じゃないんだ。もう自分で飲んでくれないと」

「飲まないといけない?」

すると青年は顔を上げ、不思議そうな顔をした。

「息をしてるだろ。腹が減るだろ。子供も残す。ずっと動いてる。ずっと歩いてる。そりゃ苦しいじゃないか」

「うん」

「だから飲むんだよ」

「うん」

「ただ飲んで歩く。それだけでしょ」

「ごめんね」

「いいよ、また見つけて捕まえればいい」

「虫って、何なの。どこで見つけるの」

「知りたい?」

「うん」

「虫はね、夢か、」

「やっぱりいい」

慌てて首を振った。聞いてはならない気がした。

「そう?」

「私、ここにいていいの」

青年は窓を指さした。空が白み始めていた。

 夢で初めて朝を迎えた。青年とノノ子は下宿の屋上に出た。ノノ子は北の空を見上げ、愕然とした。昼の月のように薄く、入道雲のように巨大な歯車が、山の向こうで起き上がるところだった。そして、巨大な歯車は空を覆わないばかりに昇ると、倒れるようにこちらを見下ろすのだった。

 巨人たる歯車は、空が揺れないばかりの轟音を響かせた。ノノ子はその音に潰されるように身を屈めながら、青年へ声を張った。

「あれ、なに?」

「あれは」

青年は轟音のなかでその名前を叫んだが、うまく聞き取れなかった。神の名前のような響きだった。青年は金縛りのように立ち尽くしていた。

「私、もう起きないの」

「もう起きてるじゃんか」

青年は眉をしかめ、不機嫌そうな顔をした。


 目が覚めた。カーテンは開けられていた。体を起こし、ベッドサイドテーブルを眺めた。すると、文庫本の脇で小さな白い蜘蛛が、驚いたように慌てて這って行った。

「あ、起きたんだ。おはよう」

振り向けば、妻が寝室の入口に立っていた。

「おはよう、今日は早いね。調子はどう?」

「だいぶいいよ。なんか今朝はすっきりしててさ」

実際、妻の顔色は生まれ変わった様に血色がよかった。

「そう」

「ねえ何見てたの」

妻は眉を寄せ、怪訝そうに口を尖らせた。

「なんか、小さい虫がいて」

「え、見てないで殺してよ。刺さない?」

「刺さないよ。それにこんな小さな奴、殺したところで」

「あとで殺虫剤まいとくね。布団に来られたら最悪。」

と、妻は言い捨てるとリビングの方へ行ってしまった。

 虫が、布団に棲んで、彼女の顔を這う。そんな想像をすると、頭頂部が疼いた。どうにか殺される前に逃がせないかと、虫を探した。(了)


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