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狭い言葉/もちはこび短歌(19)

スキップでふたり裸足で水たまりじゃぶじゃぶ越えて行ってどうする
中森舞 東京歌壇(東京新聞)東直子選 2018年7月1日掲載・特選一席

 先日、2019年の東京歌壇年間賞が発表された。以前はわたしも投稿を続けていた東直子さんの選歌欄では、同欄の掲載常連でもある中森舞さんが受賞された。中森さんについては昨年もこちらの記事で少し触れたが、たくさんのすばらしい歌を作っている歌人。そんな中でも、この歌はとても好きな一首だ。
 特選一席に選ばれていたので新聞の選歌欄の一番前に掲載されていて、紙面を開いたわたしは、最初に読んですぐに覚えてしまった。一首全体を包む多幸感にうれしくなりつつ、最後の「行ってどうする」の自制する姿勢でこの歌の虜になったのだと思う。幸せと自制の組み合わせが、わたしはどうしようもなく好きなのだ。よろこぶけれども、手放しではない感じ。奥ゆかしい。わたしはこういうふうに時を過ごしていたい。こういうふうに暮らしていきたい。あこがれ。
 その世界観とともに、心に深く残っている表現がある。4句目の「じゃぶじゃぶ越えて」だ。「じゃぶじゃぶ」と言うからには、「裸足」の「ふたり」は明らかに「水たまり」の中に入っている。4本の脚でじゃぶじゃぶしている。なのに、「越えて」? いや、越えてないよね? 水たまりに入っているよね?
 散文に用いるような標準的な語法で短歌を作れ、などと言う気持ちは毛頭ない。その反対で、こういう表現にあこがれるのだ。だって、水たまりの中に自ら入って、じゃぶじゃぶと水を跳ね上げながら突っ切ってゆく様は、よく考えれば水たまりという障害を「越えて」いるとも言えるではないか。そんなことに気づく。水たまりの越え方は「飛び越える」という方法だけではない。臨場感あふれるすてきな表現だ。わたしは「水たまり」と「越えて」の二語の結びつきで「飛び越える」という様態しかイメージできなかった自分の心の貧しさを恥じた。

 この歌の発表から半年以上経って、わたしの所属する歌誌「かばん」の誌上で、中森さんと対話する機会を得た。わたしはよろこび勇んで「越えて」という語を選んだ理由を質問してみた。すると、わたしにとって、さらに驚くべき答えが返ってきたのだ。一部を抜粋しよう。

私は狭い言葉をあいしています。方言などよりもより狭い、仲間にだけ、家族にだけ、あなたと私にだけ、いや、私にだけわかるという言葉ほどよろしい。取り上げていただいた歌でいえば、私にとってスキップは「越える」ものであるという前提があります。「進む」でも「飛ぶ」でもなく「越える」。水たまりを「越える」というより、スキップゆえに「越える」なのだと思います。
(「かばん」2019年6月号 「わたしたちの東京歌壇」)

 なんと! 中森さんにとって「スキップ」は「越えて」いることが前提だったとは。これは想像できなかった。
 中森さんの言う「狭い言葉」の狭さの範疇に、わたしが入っていなかったということだ。とてもすてきなこと。だって、わたしにはわからない言葉があったからこそ、この歌はわたしの心に深く残ったのだから。わたしにはわからない「狭い言葉」は小石となってわたしを躓かせた。中森さんにだけわかる言葉だったから、わからないわたしは躓き、この歌に立ち止まったのだ。
 作者による自解には否定的な読者もおいでだろう。わたしは自分の読みが周囲の意見にあまり左右されない体質を持っているので、作者の自解だろうがなんだろうが構わずに自分の読みを優先する。でも、この「越えて」の中森さんの自解には心が揺さぶられた。絶対にわたしにはわからない「狭い言葉」に巡り合うすばらしさを構造的に教えてくれたからだろう。
 作者の解説がない限り、わたしは「狭い言葉」の作者が意図した意味には気づかない。それで十分だ。でも、場合によっては、作者の作歌秘話を聞くことにより、確固たる自分の読みに加えて新たな印象が心に刻まれることも幸せだ。どうやら「一粒で二度おいしい」短歌のもちはこび方もあるようだ。

文・写真●小野田光
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「もちはこび短歌」では、わたしの記憶の中で、日々もちはこんでいる短歌をご紹介しています。更新は不定期ですが、これからもお読みいただけますとうれしいです。よろしくお願いいたします。

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