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キャッチーな思いやり/もちはこび短歌(31)

リモコンをテレビ棒って呼ぶきみのお父さんお母さんありがとう
水野葵以『ショート・ショート・ヘアー』(書肆侃侃房、2022年)


 水野葵以さんの第一歌集『ショート・ショート・ヘアー』は一冊が11編の連作で構成されていて、その卓越したストーリー性に惹き込まれる。短歌はストーリー仕立てより一首として成立しているかが重要だという考えもあるけれど、もちろん一首ごとでも独自の景の切り取り方と歌の組み立て方が光る歌ばかりだ。一冊の書物への歌集評はまた別の機会に行うとして(書きたいことがたくさんある!)、今回は「もちはこび短歌」として一首評を書きたいと思う。
 掲出歌は連作の前後の歌を抜きにして一首だけ目にしても、一読して恋人の行動への感慨の歌だとわかる。景がぶれないのも水野さんの短歌の特徴だし、巧さだ。
 テレビジョンのリモートコントローラーのことをわたしたちは単に「リモコン」と呼ぶ。エアコン、ブルーレイデッキ、電灯など、部屋中には様々な「リモコン」があるが、「リモコン」というとテレビのものが思い浮かぶのではないか。テレビの「リモコン」は「リモコン」界の王様といった感じだ。
 しかし、この歌の「きみ」はそんなテレビの王様加減を決して利用しない。そんな常識は頭にないのかもしれないし、もしかしたらさまざまな「リモコン」がある中で「テレビ」だけが単に「リモコン」と呼ばれる不平等に疑問や不信感を持っているのかもしれない。とわたしの直感は働き、その刹那、この歌はわたしの脳内に定着してしまった。
 この歌について、「リモコン」を「テレビ棒」と言い換えたことがかわいいという読みを聞いたことがあるけれど、そんな簡単なことではないのではない。
「単にかわいいだけ読み」を採用すると「テレビ棒」は「棒」という「リモコン」の言い換えに主眼があるように感じるだろう。しかし、「リモコン平等重視読み」をすると「テレビ」とわざわざ言う部分に主眼が移る。要するに「テレビ」こそ言い換え対象部分なのだ。
「テレビ棒」という発想がある人は、「エアコン棒」や「ブルーレイ棒」などきちんとアイデンティティを平等に示す名づけができる人だということだ。「テレビ」だけを王様にしない人。さまざまなリモコンをすべて平等に呼びたい人。細かいことだけれど、とてもすてきなことではないか。世界の見え方、捉え方として。
「エアコンのリモコン」や「ブルーレイのリモコン」より「〇〇棒」は言いやすくキャッチーだ。平等性につながるキャッチーさ。こういうことをサラッとできてしまう人は稀有だ。そんな人に出会えた主体の喜びが、主体もまた平等な人だと読者に感じさせる。
 そして、その喜びを示した下の句が、これまた慣用的といっていいくらいの潔いキャッチーさだ。上の句で「きみ」のキャッチーな平等性を喜んだ主体が、下の句でその喜びをキャッチーな感謝に変えてみせる。こういう芸当こそ文芸の芸の部分だと感じる。
 しかも、感謝の相手が「きみ」の両親だというところが素朴だけれど、すてきな発想だ。ほんとうに相手のことを想ったとき、そこには相手が生まれて育つ過程、要するに自分に出会う前に平等性を獲得していった時間、「きみ」の過ごしたすべての時間への感謝なのだと思う。そのことが「お父さんお母さん」に表れている。
 誰かに対してこんなにさらっとキャッチーな思いやりを示せたことはあるかな。自分にそんな平等性はあるかな。衒いなく感じられるキャッチーさは素直な心のなせることではないかな。そんなことを深く思い、あこがれる一首だ。

文・写真●小野田光

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「もちはこび短歌」では、わたしが記憶の中で日々もちはこんでいる短歌をご紹介しています。更新は不定期ですが、これからもお読みいただけますとうれしいです。よろしくお願いいたします。

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