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生きるブームは去らない/もちはこび短歌(32)

気がつけば三十歳でモロゾフのプリン容器が増えゆく戸棚
上坂あゆ美「生きるブーム」(『短歌研究』2022年8月号)

 今年、もっともわたしの中へと自然に入り込んできて、そのまま居着いている短歌だ。ほんとうに好きだから、思い出すたびに心地よい。
 この歌を折に触れて思い出すのは、わたしの家の戸棚にも複数の「モロゾフのプリン容器」が常備されているからかもしれない。確かに最近、あの容器を見るたびに、手にするたびに、この歌を思う。でも、もっと大きな力を感じるのは、この歌が「生きるブーム」というなんだか壮大な感じもあるタイトルの連作に入っているからなのか。この歌には生き方にまつわる問題が潜んでいる、とあらためて考える。

 作者の上坂あゆ美さんとわたしとでは、ひと回り以上年齢が違うと思うけれど、きっと戸棚に増えてゆくモロゾフのプリン容器は、彼女が生み出した主体のものとわたしものとで同じだ。わたしが知る限り、1980年代から今に至るまで、あのガラス製の容器には大きさや形状から「Morozoff」のロゴの配置に至るまで目立った変化はない(1970年代以前のことはわからないけれど、もしかしたらもっと昔から変わっていないのかもしれない)。この短歌の主体やわたしの家の戸棚だけではなく、わたしの実家や祖父母の家にもあの容器はあった。子供のころ、友達の家に遊びに行くとあの容器にカルピスを入れて出してもらったことだってある。丈夫なガラス製だから、プリンを食べ終わっても捨てたりはせず、どの家庭でもちょっとしたグラスとして使っていたのだ。わたしの実家ではよく歯磨き用のコップになっていた。

 そんなある意味で普遍的なアイテムが用いられているので、この歌は世代を超えて共感されると思う。たとえば穂村弘さんの「ゆひら」の名歌が、もうしばらくして水銀の体温計を口に加えたことのない世代にはわけのわからない一首となったとしても、この歌には今のところそういう心配はない。モロゾフのプリンある限り。

 その共感が、わたしがこの歌を「もちはこんでいる」要因のひとつであることに間違いはないのだけれど、上坂さんが世代を超えた共感を呼ぶためのアイテムとして「モロゾフのプリン容器」を選んだわけではないはずだ。この歌の主体にとってあの容器の普遍性が欠かせないことにこそ、生き方にまつわる問題につながる。そのために選んだのだと思う。

 2022年に「気がつけば三十歳」になっていたこの歌の主体が、高くも安くもないプリン(モロゾフのふつうのプリンは300円くらいだ)を時折食べ、その都度空いた容器を戸棚に置いてきた日々のことを思う。主体の三十歳までの日常には、必ずあの容器があった。十歳の時も、二十歳の時も。地層がいつも土で作られるように、よいことがあっても、よくないことがあっても、常にあの容器を戸棚に積み上げながら過ごしてきた人生。「気がつけば三十歳で」という表現から、もしかしたら主体は「三十にもなって相変わらず同じことをしている人生だなあ」というどちらかというとマイナスな感情を滲ませているのかもしれない。しかし、それはマイナスなことなのだろうか、とわたしは思う。

 いつだって同じ積み重ねがある戸棚って、なんか安心しないだろうか。しかも、あの容器が他の家にもあることに気づいていたとしたら(きっとこの歌の主体は気づいていると思う)、心強くもなるのではないだろうか。

 どの家庭にもある普遍的風景と個人の人生の関係性が、この歌にはある。「モロゾフのプリン容器」には個性などない。どれも同じガラス容器。昔から同じガラス容器。でも、自分の「戸棚」に置くことで、自分だけの容器にもなる。何年生きたとしても、人生とはいつだってそういうものなのではないか。他者とそうは変わらないけれど、自分だけの人生。他人と比べないことを目指しながら、他人とそう変わらないと気づいた時に自分に対して何かを諦める人生。諦めると同時にどこかホッとする人生。わたしはこの歌からそういう生き方を感じる。

 個性と普遍性の間を行き来すること(悩むこととも言う)は、生きているうちにはやめることができそうもない。三十歳の時も、四十歳の時もそうだったと、わたし自身のことを思う。これは生きている間中のブームだ。だからこそ、この歌の主体が四十歳になってもあの容器を戸棚に増やしているだろうと、わたしは断言したくなる。ということは、わたしが百歳になってもモロゾフのプリンある限り、わたしは同じことをするだろう。そういうことこそ、わたしの「生きるブーム」なんだと、この歌を思い出す時にわたしは一瞬にして感じ、諦め、そして安心する。


追記

なんとなくモロゾフのウェブサイトを見てみたら、プリンのページに「※お召し上がり以降、食器としての再利用はお控えください。」と記されていて、わたしは戦慄を覚えている。安心どころではない。

文・写真●小野田光

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「もちはこび短歌」では、わたしが記憶の中で日々もちはこんでいる短歌をご紹介しています。更新は不定期ですが、これからもお読みいただけますとうれしいです。よろしくお願いいたします。

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