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おもしろいかたち/もちはこび短歌(29)

おもしろいかたちのしみになるような傷つき方をしたいと思う
岩倉曰『harako』(TNYM books、2022年)

 わたしは他者を傷つけたくないし、できれば他者から傷つけられたくないけれど、仕方なく傷つくこともある。自分のせいで傷つくこともある。

 ある程度の人生を過ごすと、何度も傷つき、その経験からこれから先の人生でも自分が傷つく事象が発生することを想定しながら生きるようになる。中には「傷つくくらいでいちいち傷ついていられるか」というような超人的発想の人もいるように見受けられるけれど、大抵の人のメンタリティはそうはいかない。そこで、傷つくことと折り合いをつけながら生きようと工夫する方策を身につけるわけだけれど、ユーモアをまとったこの歌はまさに折り合いの一首だと思う。

 折り合いの結果が「おもしろいかたちのしみ」というところがおもしろい。「しみ」は服についたり、カーペットを汚したり、それが決して消えないものだから厄介だし、嫌悪の対象になる。拭いたり洗ったりしてきれいに落ちるものは「しみ」ではない。心の傷と同じだ。

 いや、同じだろうか。

 こう考えたとき、ポイントとなるのは3句目の「なる」だ。傷は「しみ」に「なる」。上の句はそういう比喩なのだ。傷と「しみ」は似て非なるものという捉え方のもとに、傷が「しみ」に「なる」までの時間の経過を示唆している。

 時間の経過は傷を癒し、決して消えない心の傷を「しみ」くらいにしてくれることはある。もちろん後で眺めたときに笑えるような「おもしろいかたちのしみ」になることだってあるだろう。しかし、どんな「かたち」になるのかは、自分ではコントロールできないものだ。初めから「おもしろいかたちのしみになるような傷つき方」なんてないのだ。そのこともまた、わたしたちは知っている。それでも「したいと思う」と願ってしまう心情を、岩倉さんはわたしたちに見せてくれる。わたしはそんな岩倉さんの願望を目の当たりにして、どうかいい折り合いがつきますように、と祈る。そして、これからもお互いにそういう傷つき方ができるといいですね、とも思う。

 同じ歌集の終盤にはこんな歌もある。

しばらくは擬似青春をするつもり落ち着いたら生野菜も食べる

 傷心を感じさせる上の句。そして、下の句では「落ち着いたら」と未来への時間の経過が示される。「生野菜も食べる」の「も」からおそらく主体が「生野菜」が好きではないことが推察できる。「落ち着いたら」=時間が経過して傷が癒えたら苦手なことにも挑戦してみるという未来は、傷が「おもしろいかたちのしみ」になった日のことのように思えた。

 傷が少しずつ癒えて形を変えると、人間は新しい何かを手に入れることがある。そのときこそが「おもしろいかたちのしみ」を眺められるようになる瞬間なのだ。そして、この歌は、傷つくことを恐れる人たちのお守りになるのだ。


文・写真●小野田光

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「もちはこび短歌」では、わたしが記憶の中で日々もちはこんでいる短歌をご紹介しています。更新は不定期ですが、これからもお読みいただけますとうれしいです。よろしくお願いいたします。

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