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オーダーメイドを頂戴

音楽が刺さらなくなってきた
映画が刺さらなくなってきた

これまで自分の身近にあった創作たちが、悲しいくらいに心に刺さらなくなってきた。良いタイトルだと思い、湧き上がる期待を指先に集めて再生ボタンを押しても、その瞬間、求めていない創作がドヤ顔でこちらを包囲してくる。お前らじゃねぇよ、と思う。なんだよそのポップなイントロは、また恋人の話かよ、だってそんな、そんな感じじゃなかったじゃんか。これを裏切りだと被害妄想してしまうのも、もうお決まりになってしまった。だから、いつも同じ作品しか選ばないし、冒険が出来ない。(人に勧められることでようやく踏み出せる)

ならば自らの手で作ってしまおうかと思っても、それは結局自分の感情の掃き溜めに過ぎない。自分が求めているものを自分で形にしようとしているときの虚しさといったら無い。所詮、自分の引き出しにある、自分の守備範囲に所属しているものでやりくりするしかないので、そんなことをしたって孤独がいっそう加速するだけなのである。第三者からの圧倒的な肯定が欲しい。

心を許した人間が殆どおらず、心が破滅しそうな時にすがれる相手はいつだって創作物、もっぱら音楽だった。何も無い生活の中にイントロが割り込んできて、まるっきり別の「世界」を連れてくる。呼吸も、身体の動かし方も、行く先も、全てを音に任せれば良い。歌声が聞こえてくれば、いよいよ二人きりの時間が始まり、自分ではどうしようも無いほどに絡まった心は次第に解かれてゆく。涙は流れる必要を失う。耳に届く音が増えれば増えるほど救われているような気持ちになっていった。例えそれが悲しい曲だったとしても、細部にまで人の手が行き渡っているのが感じられて好きだった。

だから勘違いしていた。それら全ての音楽たちは、私の為に作られたのではなかったのだ。一人になりたいけれど、本当は一人になりたくない、そんなときに話をしてくれる唯一の存在だと思っていたのに。そりゃそうだ、不特定多数に向けて作られた音楽が、私の欲しいままの姿で私だけに提供されるはずがない。ましてや、作者が作者の為に作ったものだってこの世には沢山あるのだから、ここで落胆しているのはお門違いである。音楽が万能薬でなくなってしまった今、何に助けてもらったらいいのか分からなくなった。耳に刺さってくる環境音を和らげる為に、イヤホンでノイズキャンセリングをする。無音に閉じ込められて暮らしてゆく。

人と話をする事
これを「オーダーメイド」と同じ括りに仕舞っている。自分の求めているものがそのまんまの形で来るとは限らないけれど、少なくとも、自分が与えた情報によって我々が共有している空間や相手の思考は変化する。どんな言葉をかけようかと考えてくれている間とかもそう、逸らされない目線とか高低を行き来する声色とか。それだけでも嬉しいのに、時にはその人なりのアンサーをも出してくれる。誰のものでもない、全部全部、私の為だけのものである。当たり前、当たり前。当たり前なのだけれど、毎回これを新鮮に喜べるくらい、私の人生には人との対話が足りていない。

大人数は苦手だから少人数が良い。本当は、一対一が一番良い。しかし、相手が一人ということは、向こうにとっての相手も私一人ということになる。つまり、全責任が自分持ちになる。相手を楽しませる自信が無い。(話すのも考えるのも遅いし)でも一丁前に、自分にはオーダーメイドなコミュニケーション、ないし関係性を求めてしまう。与えてこなかったから今、それを手に入れられていないのだけれど、もしもまだ間に合うのなら、と願ってしまう。連絡が続いている相手なんか居ないし、気軽に電話が出来る相手なんか尚更居ない。大体の蚊帳の外に居る。色んな蚊帳が存在するこの現状に対して、そのほとんどの外に居る。ここにきて、同期に言われた「馬場ちゃんは真人間なんやね」が効いてくる。どういう意味?って思っていたけれど、時間をかけてじわじわと理解出来てきて、ほんまにそうやんと思えてしまった。

頭痛で天気が悪いことを知る。朝起きた時から、今日は駄目な日だということが分かる。長くなるであろう一日が出来るだけ早く通り過ぎてくれることを願い、身体を布団から遠ざける。アラームが鳴る前に起きられたことだけが唯一の自慢だった。頭が痛い。薬を飲むために食事をとる。旨いと感じるのに、美味しく食べられている気がまるでしない。あーあ、勿体無い。

馬場光

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