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「ホンモノのケーナ奏者」になった時の話

 2008年、北京オリンピックの最中、僕はボリビアのラ・パスにいた。高校の修学旅行で韓国に1週間行った以外は海外経験がなかった当時の僕にとって、初めての、しかも単身での海外長期滞在がこの富士山より標高の高い町だった。当時は、メール1通送るのにわざわざ往復1時間バスに揺られて中心街まで出かけて行ったと記憶している。
 この町で色んなことを覚えた。そして、日本ではなかなか起こらない出来事に数多接したおかげで、大概のことには物怖じしなくなった。ドアが1枚無いタクシーや、銃で撃たれてフロントガラスが割れたバス、おまけに運転手はアル中…まぁ、そんなのに乗って生活していたものだから、日々、死ぬ危険というのが日本にいる時よりもぐっと身近なものに感じられていたのかもしれない。標高3800メートルで呑む、何で出来ているのかよくわからない酒がなんとも心地よく、胃袋も肝臓もずいぶん鍛えられた。

 そんな話はともかく、本来のラ・パス滞在の目的は現地の音楽調査(と大学には伝えていた)、そしてボリビアのケーナ奏法を学ぶことだった。
 この町では2人のケーナ奏者から教えを受けた。
 1人は日本でもかなり著名な方で、19世紀後半から20世紀前半にかけて隆盛したラ・パスの音楽を復興させたり、多様なジャンルの音楽を横断したりと、そのキャリアの中でボリビアのケーナ演奏史における一つのスタイルを確立させた存在だった。しかし、彼の指導法はともするとかなり権威的になりがちで、最初のレッスンで持ち方やら運指やらを教えようとするものだから、「僕はそんなことを教わりにわざわざこんな遠いところに来たんじゃない。ケーナを通してこの国の音楽のエッセンスを吸収しに来たんだ。ただ吹くんだったら、僕の方があなたより上手い。あなたがその楽器を初めて手にした時から今日まで学んできた旋律を、なるべく多様なスタイルで、そしてあるべき形で教えてほしい」と、僕は片言のスペイン語で彼にズバッと言い放った。彼はさすがに激怒して、一晩考えると言って稽古場を立ち去ってしまったが、翌日からは僕が望んだような特別な稽古を授けてくれた。遠い記憶を辿るように慎重に、しかし1曲につき2回ぐらいしか吹いてくれない彼の演奏を、全身を耳にして聴き、その姿の全てをよく観察して、1日に多い時で6曲ほどを覚える、そんな毎日を1か月以上過ごした。その後、「こういう教え方は初めてだったけど、面白かったよ。あとは自分で深めたらいい。それにしても、お前の音の記憶力はずば抜けてるなぁ」という言葉を残して、彼はヨーロッパ・ツアーへ旅立ってしまった。

 さて、次の師を探し始めた僕の頭には、すぐにある名前が浮かんだ。前述の彼とは全く異なるスタイル、何ならちょっと敵対しているぐらいの演奏家。ここではOさんとでも呼んでおこう。
 しかし困ったことに、Oさんの連絡先を周囲の誰一人知らなかった。「いやぁ…生きてるのかな?(笑)でも一つ確かなのはね、残念ながら彼は弟子を取らないんだよ」と何人もの口から聞いた。噂によると、彼はイギリスに7年ほど暮らしていたが、そのほとんどを刑務所で過ごしたらしい。帰国後は、「俺はイギリスでロックを学んできた!」と周囲に誇らしげに語っていたが、色々と困窮し路上生活をしていた時期もあったそうだ。今でも各種葉っぱの取引を続けているそうで、皆、あまり近づきたくないらしい。ばっちりである。
 すると、知人の知人のまた知人ぐらいの人から奇跡的にOさんの連絡先を手に入れ、早速電話をしたらあっさりと通じてしまい、その日のうちに会えることになった。確か、どこかのカフェで待ち合わせた気がするが、その後の衝撃が強すぎてあまり良く覚えていない。
 しばらくして、黒革靴、黒革パンツ、黒革ジャケット、黒サングラス…全身黒づくめの長髪のOさんが僕の目の前に現れた。サングラスの奥にかすかに見える視線は、決して僕の目とは合わない。それが彼の正常な状態なのだ。小柄なのと声が優しいのが僕の緊張をほぐす唯一の助け舟だった。
 「おぉ、お前か。ケーナを吹くのか。ふぅーん…悪いが、俺は弟子は取らない。そういう主義なんだ。でもせっかくこうして出逢ったわけだし…」と言って、Oさんは革ジャンをバッと開き、胸ポケットからサッと何かを取り出した。一瞬、やられるかと思って見構えたが、よく見るとそれは割れを瞬間接着剤で直しまくって異様な形になった黒檀のケーナだった。
 「お前、この曲吹けるか?」と言って、彼はチック・コリアの「スペイン」を吹き始めた。が、そのテンポは通常想定される速さの3分の1ぐらいで(ゆっくりした演奏が悪いわけではないけれども)、しかも途中で全く指が追い付いていなかった。僕は、誇らしげな顔で吹くOさんをただただ見つめていた。「はい、吹けますよ」と言って、彼の5倍速ぐらいで吹いて聞かせた。しかも1音のミスもなしに。Oさんは驚いて、ついにサングラスを外し、周囲に向かって、「おぃ、みんな!今の聴いたか?こいつは俺の弟子なんだぞ!上手くなったなぁ、あははは!」と誇らしげに言い放ち、「よし、明日もちゃんと稽古に来いよ、待ってるからな!」と、住所と時間だけを紙に書き置いて、風のように消えてしまった。
 
 翌日、Oさんが置いていったメモに書かれた住所に指定の時間に着くと、そこは家というよりガレージのような、怪しく粗末な建物だった。ドアをたたくと現れたOさんが招き入れてくれた部屋には、これまでの公演のポスター、お嬢さんとの写真、そしてマットレスが置いてあった。「娘を愛しているんだ…もう何年も会えてないけれども」と静かに語る彼と、嗅いだことのない匂いのするその薄暗い部屋で2人きりになった。
 「さて、お前に最初の稽古を授ける。これは最初であり、最後であり、いつでも帰ってくる場所になる。心して受けろ。」
 彼の態度は想像した以上に真摯で真剣そのものだった。
 「お前は”本物のケーナ奏者”になりたいか?」とOさんは僕に問うた。「はい、もちろんです」と僕は即答した。
 「そうか。よい。ケーナは我々にとって、母であり、妻であり、娘であり、恋人であり、友人である。いつ何時もケーナから離れてはならない。どんな時も肌身離さず共にいなくてはならない。いつも触れていなければならない。それは、旅をする時も、飯を食う時も、家族といる時も、そして…寝る時もだ!」
 Oさんの言葉はどんどん熱を帯びていった。
 「だから今日はお前に究極の稽古、本物のケーナ奏者になるための稽古を授ける。それは…ケーナと一緒に寝る方法である!」
 そう語るとOさんは、パンツの中の一物の隣にケーナを挿し、そのケーナを抱きかかえるように…と、本当にケーナと一緒に寝る方法について詳細に説明し始めた。
 僕は度肝を抜かれた。何が起こっているのか、理解が追い付かず、頭の中がぐるぐるになったが、気付くとOさんと僕は一緒に昼寝していた。
 そして数時間の昼寝の後、同じタイミングで目を覚ました僕らは、力強く抱き合った。
 Oさんは「おめでとう。これでお前も本物のケーナ奏者だ」と言ってくれた。「今日はこれぐらいにしよう…。明日も来たいか?」と彼が訊くので、是非と答えて、その日は彼の家を後にした。
 しかし翌日の稽古では逆に、「この音はどうやって出すんだ?」とか「この曲のここの吹き方が分からない」とか、彼からの質問攻めに遭って終わった。一応、稽古代は払ったが(日本円で数百円だった)、「明日からもう来なくていいぞ。それよりこれから近くのバーに呑みに行こう」と誘われ、稽古代の何倍も御馳走してくれた。呑みながら、Oさんはケーナの話しかせず、しかも終始とびっきり楽しそうだったのを、今でもはっきりと覚えている。

 あれか16年ほど経ち、僕自身も弟子を持つようになってかなりの年月が経つわけだが、この究極の秘儀はまだ誰にも授けるに至っていない。

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