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心がほどけるおむすびは「むすんで ほどく、あなたへのメッセージ」

あなたには忘れられないごはんが、ありますか?
その日を思い出すだけで体中に行き渡ったあの時の、カラダがよろこんでいる感覚が、ココロが満たされてゆく感覚が蘇る、、、そんな記憶に残るごはん、あるでしょうか。

わたしは、、、おむすびを食べて泣いたことがあります。

一口頬張った途端、食べかけのおむすびを左手に持ったまま、下を向いて泣き続けました。後にも先にも何かを食べて泣いたのはあの日だけです。

泣くというのは、癒しや感動もありますが、魂が震える体験でもあるようです。活力を失った魂を呼び覚まし再生する「たまふり」を御魂(みたま)ふるいと言うそうです。十数年前おむすびで泣いたあの日は、わたしにとって魂を呼び覚ますまさに魂振りの体験だったんじゃないか、と今となっては思える出来事でした。


あの頃のわたし

30歳を迎える頃。遠距離恋愛の末結婚をして、仕事も面白くなってきた時期でした。側からからみたら公使共に充実している様子だったかもしれません。ですがわたしはいつもイライラし、不満だらけでした。仕事もパートナーシップもプライベートも、全部全力で一生懸命やっているのにうまく噛み合っていないような憤りが、いつもモヤモヤと体中に渦巻いていました。

そんなモヤモヤは焦りとなり、このままではまずいという漠然とした不安を呼び寄せ、行動も思考も悪循環に陥ってどれもこれも思った通りにいかない。しかもなぜそうなってしまうのか、じゃぁどうしたらいいのか、全く見当がつかず行き場のない感情がいつも自分か誰かを責めることになり、心も身体もどんどん疲れていきました。

そんな頃、ある日仕事帰りに立ち寄ったいつもの飲み屋さんで〆に頼んだ鮭おむすび。

頬張った瞬間、泣きました。

なんでかなんて理由は全くわからなかったけど、頬張ったとたん、涙が溢れたんです。

一生懸命やってるのになんで?
どうして誰もわかってくれないの?

必死で抑えてきた恨めしい氣持ちや悔しさといったネガティブで泥々した感情と共に、あぁわたし泣きたかったんだ、、、、しんどかったんだ、、、やっと泣けた安堵感のような氣持ちが溢れ、張り詰めていたものが一気に崩壊しました。

同時に

「大丈夫。一生懸命やっている誇りを失うことはないんだよ。大丈夫だよ、必ずなりたい自分になれるから」

そんなメッセージを受け取ったような氣がして癒されたことを覚えています。


パワーゲームから降りよう

その夜パワーチャージのできたわたしは「頑張っていればきっと報われる。」ほんのわずかな期待を胸に、毎日必死に、でも確実に疲弊しながら日々闘っていました。

大阪出張に向かっていた時のことです。東京駅の階段でキャリーケースごと派手に転びました。拗ねを打ち痛くて立ち上がれないわたしの横を、たくさんの人が見向きもせず通り過ぎていきました。

「あ、、、誰も手を差し伸べてくれないんだ、、、」

足の痛みより心が痛みました。

わたしなんていなくても平氣なんだ。。。。
誰かにとってわたしなんて、どうでもいい存在。。。。

惨めで情けない思いを味わいながら起き上がれないでいた時

あぁ、わたしはもうとっくに限界なんだ

心も体もとっくにキャパオーバーしてることをやっと認めることができました。


どれだけ自分に無理を強いてきたんだろう。
どれだけ痛めつけてきたんだろう。

今のわたしは、昔なりたいと思っていたわたしじゃない。
一生懸命やってきたし、いつだって全力でやってきた。
でも、今のわたしは、なりたいと思っていたわたしじゃないことだけはわかる。

わたしの生きる場所はここじゃないんだ。

このまま続けていてもきっと惨めな思いはまたする。
これ以上傷つきたくない。
もう終わりにしよう。

そう決めて、おむすびで泣いてから数ヶ月後、わたしは会社員を卒業することを決めました。


執着、依存、そして不自由さの自覚

自分を生きようと決めてリスタートを切ったはずでしたが、アイデンティティを仕事に求めていたわたしは、結局仕事を手放すことができず、採用の仕事をフリーランスとして請け負っていました。

仕事を手放してしまったら、わたしの存在意義はなくなってしまう。

そんな怖さがわたしを更に仕事へとかき立てました。
そんな矢先、不妊治療を経て子どもを授かりました。
半ば強制的に仕事を手放すことになってしまったわたしは、次に「母親」という役割にアイデンティティを見出すようになりました。

自分を生きることと何かのできるわたしを見つけることは全く違うはずです。ですが当時のわたしは何者かにならなければ自分という存在を表現できない、と思っていました。自らを他者の価値観や評価で測り、こうでなければ認めてもらえないと足枷を増やし、その範疇で何者かになろうとしていました。

母親でありながら”これができます””これでお金を得られます”そんなスキルを提示することで「何者か」を表現しようとしていたわたしが始めたのが料理教室でした。採用の仕事で培ったカラーセラピーの知識がレシピ本となっていたことがきっかけでした。

お教室を始めて半年ほどするとお客様の要望に違和感が湧いてきました。

「レシピをください。」「正確なレシピが欲しいです。」

そんなお声を頂くようになり、期待に応えようとすればするほど違和感が大きくなりました。

レシピが増えたらみんなは幸せなんだろうか?

レシピを渡したらみんな楽しくごはんをつくれるようになるのだろうか?

このレシピがファンという名で依存をうんでいないか?!


そもそも毎日のごはんってそんなにちゃんとつくらなければいけないもの?
だって毎日のことだよ?もっと氣楽で自由でいいはず。

・・・ん??
じゃぁ、わたしは?
つくっていて楽しい?幸せ?
わたしは自由につくってる?


その問いは、わたし自身もごはんづくりを不自由にしていたと氣づいた大きな大きな問いでした。


おいしいって言ってよ。
頑張ってつくったんだよ。
一生懸命考えたんだよ。
褒めてよ。喜んでよ。

家族に対する、期待、コントロール、強制。
わたしのごはんは他者が基準で、媚びたり拗ねたりしていました。家族がおいしいと言ってくれるごはん、という名の依存。自分を置いてけぼりにしたごはんづくり。
「あんな風にしないと喜んでもらえない」
「こんな風すれば褒めてもらえる」
ごはんづくりにそんな縛りを課していました。


ねえ?
毎日毎日手を動かし、メニューを考えて、つくり出しているのはわたしだよね。
わたしは、わたしのために、わたしがよろこぶごはんを作ってあげたことあった?
わたしを満たすチャンスは毎日毎日あったのに、毎日何もしてあげてなかったの?
わたしのこの手は誰かのためには動かし続けてきたけど、自分のために動かしてはいなかったんだね。。。

じゃぁ、わたしが今まで一番、心も体もよろんだごはんは何だっただろう?


あぁそうだ。
わたし、おむすびで泣いたことがあった。
体中がよろこび、満ち足りた感覚になったあの日のおむすび。頬張った瞬間にしがらみが一気に緩んだ感覚。体中に癒しのエネルギーがブワっと行き渡り、細胞がザワワーっと目覚めたような呼び覚まされた感覚。
味わったあの日のほどけた感覚が蘇りました。


本質で在ることへの目覚め

「何か食べて泣いたことある?」「泣くほど感動したごはん、食べたことある?」周りの友人達に聞いて回りましたがYESと答える友人はひとりもいませんでした。

もしかしたらわたしにとっておむすびは何か意味があるのかもしれない。

そう考えて「すごくおいしいおむすびは食べたことある」と友人が教えてくれた新潟在住の方のところへ食べさせてもらいに伺いました。

すると「あなたおむすびもむすべないの?」とバッサリ。

えっと・・・・苦笑
おむすびなんて教わるものじゃないんだと知らされました。

確かにそうです。

母親がむすんでいた様子をそのまま真似しているだけだったし、”おいしいおむすびのむすび方”なんて習おうと思ったことはありませんでした。
ラップに包んでギュってして、それがおにぎりだと思ってたけど、、、、それって「むすんでいる」っていうのかな。握ると違う?うん、違うっぽいよな。

だったら。自分がおいしいと思えるおむすびをむすべるようになってみたらいいじゃん?「おいしいおむすびです」と堂々と言えるおむすびむすべるようになろう。そう思って練習をはじめました。


お米は硬めに炊くって言ってたな。確か2、3回しか触らない?
海苔は全体に巻いてあったな。。。。試行錯誤しながら心がほどけるおむすびになったのが2016年のことです。

むすび続けると、誰かの何かを基準にしてきた自分、抑圧してきた思考や行動がどんどん露見しました。体が本当に求めるもの、求めることを選んでこなかったこと。本当にやりたいことにお金を使っていなかったこと。どうせと諦めてきたこと。だってといじけていたこと。夫を愛したいように愛さず拗ねているわたし。子どもを愛したいように愛せていない情けないわたし。
そして、自分のことも愛してあげられず傷ついていたことも感じました。

なぜそれを感じることができたか?

おむすびをむすびながら「自分に手をかけること」の本質を感じ続ける日が続いたからです。

手をかけるとは愛でること。
愛でるとは愛おしむこと、愛を伝えること。

自分の欲求にまっすぐ素直になる暮らしにチャレンジしながら、おむすびをむすび続け、こうあるべき、フツーはこう、といった他者基準だった自分の縛りや足枷をほどいていきました。

どんなおむすびになってしまっても、それを見て不服を感じても、自分が感じたこと、感じることにいい悪いはない。全てOKとあるがままを受け入れ続けました。コントロールやジャッジをしてしまうわたしが心底嫌だったけど、でもそれは傷つかないように自分を守ろうとしていたんだよねと認め許してきました。

そういったことを誰かにしてもらうのではなく、自分で自分にしてあげるようになっていくにつれ、満ち足りるという感覚、本当の豊かさを実感できるようになっていきました。何かができるようになることへの欲求を満たすのではなく、存在そのものとしてどう在りたいかを丁寧に丁寧に内省し、本質的な満ち足りてゆく感覚が根づいていく実感がありました。

そして自分を愛でることを渇望していたわたしが本当に満ち足りる感覚が味わえるようになった頃、「わたしはこう在りたい」という姿がイメージできるようになったんです。

自分を生きるというのは、何かができると言える人になることではなく、こう生きるんだ、生きていくんだ、と表現できることだったんです。

わたしにわたしで在ればいいんだよと教えてくれたおむすびを伝えたいと2018年に、おむすびを伝える人になります、と公言しました。
おとな達の、子ども達の「より自分を生きる力」を呼び覚まそう。
そう決めて心がほどけるおむすびの会がスタートしました。
そしてそれはわたしの生き方や在り方と直結する仕事となっていきました。


むすんでほどく。自分だけでなく大切な誰かとも。

過去に傷つき、過去を基準にしながら、そんな世界は無理だと諦めかけていたわたしは、おむすびをむすび続け、伝え渡しながら、癒し、認め、許し、在りたい姿を表現し続けました。決してできた先生ではなかったかもしれないけど、わたしが信じたおむすびを500人以上の方々へ伝えてきました。

そしてその先に見えたのは、わたしが心から創造してみたいと望む世界でした。自分が在りたい姿でいられるだけではなく、誰かの個性や才能もまっすぐ発揮されて、それが誰かをよろこばせている。誰もが在りたい自分で生きている世界。

コントロールや、駆け引きで関わるのではなく、距離感や関係性が自由で深い、共感でつながる世界、共鳴の拡がる世界を望んでいることを自覚するようになりました。

その世界に必要なものはなんだろう?

そんな疑問を抱えながらも、自らの在り方を整え、まっすぐ表現できるようになってゆく道のりはわたしの本質が目覚めてゆくプロセスでもあり、わたしそのもので生きる予兆でもありました。

その頃から自分の信じるものを信じてくれる人達が目に入るようになってきたのです。

今まで自分を整えることで精一杯だったわたしを見守り、応援し、見返りなんて全く望まずに愛を渡し続けてくれていた仲間がこんなにたくさんいた!!!

このことに氣付いた時の衝撃、悦び、戸惑い。同時に大きな大きな愛の波に襲われました。さらに再び自分が仲間と感じる人達とどう関わるのか問われ、在るがまま関わることへの怖さも感じました。

ですが、この時に在りたい世界へ誘ってくれたのも、おむすびでした。

ギュッと力を入れて握るでもない、力を抜いてポンと置くだけでもない。
何かしてあげようとするのでもなく、当たり障りなく、でもなく。
口に入れた時ほどけるようにむすぶという感覚と人との距離感は同じだよとおむすびは教えてくれました。

大切な人へこそ、何かしてあげようとしてしまうお節介で厄介な自分がいることを改めて感じ、わたしがやればいい、わたしがやってあげると、自らをディスカウントする自分にも氣づきました。

本当にしたいのはそうじゃない。
自分にも他者にもまっすぐ透明でクリアなわたしのまま接し、悦びを感じ合いたいだけだったんだ、と分かったんです。それは愛を与えるばかりだけでなく、愛をまっすぐ受け取るということでもありました。

この頃、実は、3年以上使っていた海苔に違和感を覚えるようになったのです。手にしっくりこないというか、、、食べても調和されていないような食感が否めませんでした。

改めて今わたしにフィットする海苔を探しだし、本当の意味での調和を感じながらむすんだおむすびは、心がほどけるおむすびの会を再開し何人も来てくださったリピーターさんが「佑紀さんのおむすびが変わった」と皆が口を揃えて言ってくれたのです。


十数年前、自分も人も信じることができず、仲間の存在を拒否するどころか感じることすらしようとしなかったわたしが十数年後の今歩いているのは、いのちが本当に望んでいるであろう道。そこへおむすびが誘ってくれた。愛に溢れた世界へおむすびが誘ってくれました。

愛という目に見えない不確かな存在。だけど人が生きていくにはきっと必要な存在。

そんな曖昧で不確かな存在の本質を感じさせてくれるおむすび。
わたしは心がほどけるおむすびを伝えながら、自分へも大切な誰かへも、愛を伝え渡すこと、受け取ることをまっすぐ素直に表現して生きていいんだよ、と伝えて生きたいと思っています。

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心がほどけるおむすびの会について
概要https://note.com/hikarinotane_pjt/n/n87a39873f78e


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