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1993年冬、北京ーモスクワ国際列車 女二人の珍道中 時々行商人②

1993年1月20日~21日 モンゴルの国境越え

結局、巨大な荷物群が部屋の空間のほとんどを占拠してしまい、ふと見上げれば頭上から荷物に見下ろされているようである。荷崩れでも起きた日には大変なことになりそうだが、そうならないよう、行商人たちは紐やら何やらを駆使して荷物を固定していた。

ここまでですでに、一日の終わりを迎えたくなるくらいどっと疲れが出たが、気を取り直してアンナと一緒に朝ごはんを食べた。といってもメニューは前日に北京市内で買い込んだ軽食だし、車窓のところについている小さなテーブルを使おうにも、その間に巨大お荷物様がデデンと鎮座しているので、車窓からの眺めを楽しみつつの優雅な朝食にはほど遠い。結局アンナと私は下のベッドで背中を丸めながら、ビスケットとチョコレートをお茶で流し込んだのだった。

北京から列車に揺られて一時間。万里の長城を過ぎたあたりから風景が変わり、内モンゴルを通過するころには、雪が一面にうっすらと積もった見渡す限りの平原が広がった。平原以外、本当になにもないのに、電柱だけが等間隔で遠くに並んで列車と並走するようにずっと続いていた。

それにしても時間が経つのがあまりにも遅い。遅すぎる。
乗ってからまだ数時間しかたっていないのに、おしゃべりと読書と食事しかすることがなくてすでに時間を持て余し気味である。大してお腹も減っていないが、お昼になったのでむりやり昼ご飯にした。当時の外国人御用達デパート「北京友諠商店」で買ったチーズとソーセージとクラッカーを食べ、本を読みながらうとうとし、夜にも同じものを食べた。

同室の中国人女性二人は相変わらず部屋を出たり入ったりして忙しくしている。連れと思しき男性がノックもなしに入って来るのでてっきり彼女たちの連れかと思っていたが、あとから話を聞いたところ、特に何の関係もないと言った。この列車にはほかにも中国人行商人がたくさん乗っていたが、一つのグループとして商売しているのではなく、お互いがこの列車を使って何度もモスクワを行き来しているうちに顔見知りになったのだそうだ。ホームで見た、あの乗り切らなかった荷物の山は残っている仲間に託して、また次の列車に乗るときに「出荷」するということも分かった。

「ということは、あなたたちは二人で組んでこの仕事をしているの? まだ二十代だよね?」
「そう。私は二十八歳でこっちは大学を出たばかりの二十三歳。私のことはドゥオドゥオって呼んで。本名じゃなくて愛称だけどみんなこう呼ぶのよ。彼女はアイジュン」

ドゥオドゥオはもともと北京市内の衣料品店で働いていたが、儲かる仕事を紹介してやると人から言われて、少し前からこの仕事をするようになった。北京―モスクワ間は10回ほど往復しているとのこと。アイジュンのほうは北京師範大学を卒業したが教職に就くことができず、困っていたところをドゥオドゥオに誘われて一緒に組むことにしたと言った。モスクワへは今回が二度目だそうだ。

そもそも私とアンナがなぜこの列車に乗っているかというと、冬休みを前にしてアンナが「ポーランドに里帰りするのに飛行機は高いから国際列車に乗って帰りたい。だけど車内の治安がかなり悪いと聞いたので、一人で乗るのは怖い。だれか一緒に行く人がいればいいのに」とこぼしたのを聞いた私が、「行く行く! 行きたい!」と手を挙げたからだ。

「怖い目に遭ったり、トラブルに遭ったりしたことはないの?」
「そりゃあるよ。お金をもらう前に売り物をひったくられたりとか、騙されたりとか。でもいちいち追いかけていくわけにもいかないから、いまいましいけどそんなときは諦めるしかないよね」

品物はモスクワでも売るけど、途中の停車駅でも売れるんだよとドゥオドゥオは言った。停車時間なんてせいぜい十分やそこらなのに、いったいどうやって? それ以前に、これは立派な闇市だろうに、駅員も車掌も鉄道警察も見て見ぬふりという名前の公認を与えているのだろうか。

時間はいつの間にか日にちをまたいで午前1時30分。二人はこの時点になってもどこから運び込んでくるのか、まだまだ荷物を入れては上のベッドに積み上げている。灯はこうこうと点いているし周りはうるさいしでいい加減疲れてきたが寝られそうもない。すると、そんな私のげんなりした表情を読み取ったのか、どのみちもうすぐモンゴルとの国境で通関があるから、寝たってどうせ叩き起こされるよとドゥオドゥオが言った。

午前1時45分、もうすぐモンゴル人民共和国の国境の町、つまり税関に着くと車内放送が流れた。お願い、早く寝かせて!

(つづく)

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