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大人流、心の穴のふさぎかた

「本当に欲しいものは、これじゃなかったのに……」

ついさっき近所のスーパーで買い求めた食材を買い物袋から出していて、『北海道産 北限の大地和牛 切り落とし 100g 608円』のラベルの横に3割引のシールが貼られたパックを見た瞬間、そう思った。

もともとはカレー用の牛肉を買いに行ったのだ。だが精肉コーナーの前に立つと、『焼き肉用 国産牛肩ロース 1200円』が目に入り、焼き肉が食べたいなとふと思った。でも今日はカレーにするつもりだったのに。家にはしなびかけた人参と芽の出かけたジャガイモもあるのに。

カレーと焼肉が頭のなかでせめぎ合った結果、なぜか焼き肉用肩ロースでもなければ煮込み用角切り肉でもない、カレーにも焼肉にも帯に短したすきに長しの切り落としを手にしていた。一人暮らしなのだから、きっぱりと今食べたい方を選べばいいだけのことなのに。こんなところがいかにも、「自分の好きなことが分からない」という私のやりそうなことだと咲子は苦笑した。

「自分のやりたいことをやってください」

なんて言われても、正直ワカラナイ。
今まで自分の頭で考えて、自分の意思でやってきたと思っていたことがすべて、母の気に入ること、母に認めてもらえる範囲内でやってきたことだったなんて、カウンセリングを受けた時にはまさかと思ったが、同時に「デスヨネー」と思い当たることが山ほどあった。なぜ私は、「両親と弟の葬式は私が出す。それをしなければ死ねない」なんて思っていたのか。なぜ「老後はやっぱり娘よね」なんて当たり前のように言う母に、当たり前のように頷いていたのか。なぜ「この家の厄介ごとは、すべて私が引き受けないといけない」などと謎の使命感に燃えていたのか。なぜ子ども時代に、朝起きたら母がいないかもしれないなんてビクビクしながら、眠れない夜を過ごしていたのか。

友達親子なんてあるわけない。
少なくとも我が家のそれはニセモノだ。だって親と子の力関係は同じじゃない。いくら「仲良し」を装っても、子は親がいないと生きていけないから、自分の意思を曲げてでも無意識に親に忖度するんだ。親の愛がないと生きられないから。

でも、そういう生き方を選んで、それをずっと続けてきてしまったのもまた、自分自身なんだよな、誰に強制されたわけでもない、母が望んでいることを私が勝手に先回りして忖度し続けてきただけだと苦笑しながら、咲子は今、今日の昼食をどうしようかと、この中途半端な食材を眺めながら考えていた。

自分が本当に欲しいものを自分に与えずに生きてきたことは、おぼろげながら自覚できるようになった。今日の買い物だって、結局はそういうことだ。食べ物を粗末にしたら母は顔をしかめるだろうなんて変な罪悪感、わざわざ感じなくてもいいのに。どちらかといえば焼肉で食べた方がおいしいと思われるちょっとだけいい肉を「それでも少しは自分の希望も考慮してみました」みたいに言い訳しながらカレーに入れようとした自分はバカみたいだ。それに気づいたなら「焼き肉が食べたいな」を実行して、精肉コーナーでふと浮かんだ小さな欲求を満たしてみようと咲子は思った。

そういえば一駅となりに「高麗」という焼き肉屋があったはずだ。もうお昼も一時を回っていたが、咲子はいそいそと車に乗ってエンジンをかけた。

だが店の駐車場の入り口には、赤いコーンが置いてあった。店内も暗い。今日は定休日だったのか。仕方がない、もう少し先にある「東大門」という店にしよう。

だがその店の入り口にも「本日は夜から営業します」と張り紙がしてあった。その次に行った店も自動ドアが開かない。すると駐車場に工事業者の車が来て、作業員の人たちがなにかの資材を下ろし始めた。こんな偶然ってあるんだろうか。

結局、手ぶらで自宅に戻った。帰るころには空腹感も峠を過ぎて、焼き肉ももうどうでもよくなっていた。そもそも大して肉が好きでもないのに、なんで焼肉って思ったんだ?

咲子のなかに、思い当たることが一つだけあった。
咲子が子どものころ、自営業者の両親が取引先に納品したあと、よく立ち寄っていたという「カクヨシ」という焼き肉屋があった。カクヨシの焼肉はとってもおいしいのよ、咲子も今度連れて行ってあげるね、という母の約束は結局果たされなかった。だが弟は両親に何度か連れられて店に行ったことがあった。咲子が一緒に行かなかったのは、資材を積んだライトバンに子ども二人を乗せるスペースがないからという理由で留守番していたからだ。

そうか、私はあの幻の焼肉を食べたかったのかもしれないな。

親から得られなかったものを自分で自分に与えられるようになったなんて、それだけですごいことじゃないか。心に空いた穴は、母の望みをかなえて埋めるのではなく、私の望みをかなえて塞げばいいんだ。

そう思いながら咲子は、さっきスーパーで買ってきたあの牛肉のパックを開けた。

次に焼き肉を食べたいと思ったら、今度はちゃんと店に電話してまずは予約するんだぞと自分自身に言い聞かせ、今日はこれで勘弁しといたるわと誰に言うともなくつぶやくと、咲子はフライパンをカンカンに熱し、肉だけ焼いてほおばった。


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