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安易な形式的公平性が芽を摘む多様性

 多様性を求めるのと同時に、画一性をも求める日本教育の闇。この構図による多様性ギャップが大きくなっています。教育の病理はここに集約されるのではないでしょうか。

 客観性を重視するが故に画一的な試験で一定の基準で足切りを行います。わかりやすいのが学力テストの点数です。一見すると合理性の高い選抜制度ですが、画一的な試験に適応できる人だけが選抜されることに繋がります。これもまた一つの選択肢という位置づけであればよいのですが、現実はそれがほぼすべてを占めるような有様です。点数や成績というものの競争心が煽られます。
 そのような環境下で子供達も洗脳されていきます。この画一的な仕組みの中でいかに高得点を取れるようになるか。進学校と言われる学校や塾はもちろん、教職員も親もその画一的な仕組みの中で上位に行くことが教育の全てであると勘違いしてしまうのです。
 今の大人は画一的価値観を植え付けられてきている世代です。学生時代にはその考えに反発し、反発していた人もいたはずなのですが、そういう人に限って画一的価値観に汚染されていたりします。良い学校、良い会社という画一的価値観によって造られた"良さ"がすべてであると勘違いしているのでしょう。

 翻って、画一的試験の上位に食い込めなかった人が社会に出て活躍できないのか?一切そんなことはありません。寧ろ、変化の激しい社会においては、過去の常識や柵に捉われない発想が活かされます。また、芸術分野では群を抜いて世界で活躍することもあります。

 社会では「公平性」を求める声が高まりつつあります。「人間らしく生きる権利(生存権)」という意味での公平性はあってしかるべきでしょうし、必要な動きと思います。しかし、何もかもに「公平性」を求め、客観的に評価できる基準を明らかにして、そこに合致するようにせよという圧力が強まっていくことを危惧しています。
 特に教育における安易な公平性は、多様性社会ではなく画一性社会に向かわせるからです。個性を殺してしまい、悩み、本来活躍できるフィールドに立つ前に精神を病むことになるからです。大人の精神疾患者も増えているように感じますが、その背景も同じではないでしょうか。

 多様性社会は、様々な価値観を持つ人が自然な形で生きる権利を持つことです。これまでの画一的社会とは全く異なる基準、複数の基準が混在する社会です。未知の世界です。そこでの公平性というのは、より多くの人に対しては最大公約数であり、特定領域で能力を発揮できる人は優遇して更に伸ばすという"公平さ"を必要とします。得意な人と不得手な人を同じように扱うのが公平なのではないということです。不得手な人が望む場合は、その人に対しても対応するのですが、それは得意な人と同じプログラムを提供することではありません。その人に合ったプログラムを提供することです。

 今の日本の教育において必要なことは、多様性を認める思考の変容です。多様性を認めるための偏った主観による評価をしても良いという「公平性」です。画一的基準を設けて評価することではありません。それはこれからの社会には馴染まないからです。
 主観で判断し、一部から評価される人の存在を認めていくことです。主観ですから多数決評価でもありません。一人でも評価する人がいるのであれば、それは多様性の中では評価されるという公平性が担保されることが必要です。

 安易な公平性は多様性の芽を摘みます。多様性の芽を摘まないように意識することが今の大人には求められています。特に教育関係者には考えながら教鞭を執ることが求められています。
 日本の未来を担う子供たちが多様性を育める環境を整備すること、それが今の我々の世代が担うべきことの一つではないでしょうか。


著者:原田光久(ひかりば 代表 / コミュニケーション・プランナー) ●社会問題解決アドバイザー、新規事業開発・地域創生・経営支援 ●行政・教育機関・民間企業で研修・講演・IT推進をサポート ●連絡先:harada@hikariba.com