「ごめんね」は、あくまでも手段でしかなくて。
子どもたちはいつも、いろんなことを教えてくれる。
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今から4年前。
これは、わたしがカナダのバンクーバーにある小さな保育園で働いていた時の話。
カナダの文化や社会の在り方がそうさせているのか、海の近くにあったその保育園で流れる時間の早さや、子どもたちの姿には、日本でわたしが出会ったそれとはおおきな違いがあった。
その中でも、わたしが今でもよく覚えている出来事を、noteに書き残しておきたい。
あの日はたしか、数人の子どもたちが園庭で鬼ごっこをしていた。
大の仲良しであるトム(4歳)とアンディ(5歳)も、その中の一員だった。
鬼ごっこと言っても、日本みたいに複雑なルール(こおり鬼やいろ鬼みたいに)があるわけではなく、鬼がタッチする、タッチされた子が次の鬼になるというすごくシンプルなやつ。でも彼らは、とても楽しそうだ。
さあ、今度はトムが鬼の番。
アスレチックの周りを行ったり来たりしているうちに、トムの狙いはアンディに定まって、よし、あともうちょっと…
トムがアンディに向かって後ろから手をのばしたところ、勢いあまってトムを押し倒してしまう、ということが起きた。
あ、ころんじゃった。
一瞬、時がとまったかのような時間が流れたが、すぐにトムはアンディに声をかけた。
トム: 「…だいじょうぶ?」
アンディ: 「なんでぼくのことおすんだよ!」
強い口調でそう伝えるアンディの瞳には、どんどん涙が溢れてくる。(繰り返しになるが、彼らは仲がいい。だからこそ、面と向かって、気持ちをぶつけることができる)
トム: 「ごめんね、でもわざとじゃなかったんだ」
それでも気持ちが収まらないアンディは、トムを睨み続けた。
さて、トムはどうするのかなあと、少し離れたところから見守っていると、トムはわたしが予想しなかったことを口にした。
トム: 「ぼくに、なにかしてあげられることある?」
ぼくに、なにかしてあげれることある?、そうアンディに聞いたのだ。
アンディはこう答える。
アンディ: 「(小さな声で)ハグ..... 」
トム: 「ん?なんて言ったの?」
アンディ: 「ハグしてって言ったのー!!!」
その言葉を聞いてトムはアンディの隣りにしゃがみこみ、からだをアンディのほうに向けると、ぎゅっとハグをした。
そのあと彼らは、さっきまでケンカしていたのが噓のように、けろっとまた遊びはじめたのだ。
***
私たちはつい仲直りをする時、どちらが悪かったのかを決め、「ごめんね」の一言で解決してしまいがちな気がする。
特に子どものケンカや争いのとき、「ごめんね」「いいよ、もうしないでね」は、1セットのように扱われることがとても多い。
まるでそれが唯一知っている言葉で、唯一仲直りをする方法であるかのように。
でも本当に、どちらかが悪いのか。
ごめんねの一言で、済ませられる感情なんだろうか。
その日にはとてもじゃないけど許す気持ちになれないこともあるかもしれないし、「ごめんね」と伝えた側にも言い分があるかもしれない。
だから、
・トムもわざとじゃなかったと伝えたこと
・アンディとトムが、自分たちの方法で仲直りをしたこと
このふたりのやりとりはとても健全で、なんだかわたしはすごくいいなあと思った。
「ごめんね」はあくまでも手段でしかないんだよなあ。
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