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ベッティングからビヨンドへ

「え、競馬?趣味悪くない?」
かつての私は、競馬をまさにそう捉えていた。賭けに熱中する人々の下品な営み、ハズレた馬券が空に舞い、粗野な態度で埋め尽くされた場所、その中には行き場のない中年の男たちがワンカップ大関を手に溢れている。そして何より、馬が怪我をしたり役目を終えたら容赦なく命を絶つという、欲望にまみれた道徳的に問題あるギャンブル狂の楽しみだと考えていた。
 ところがある日、ふらっと訪れた浅草のカフェでのある出来事が私の視点を一変させた。コーヒーを注文しようと店員を呼び止めると、「ちょっと待ってください!」と、注文を断られた。なんと、店内の全員が新聞を折りたたみ、大型スクリーンに釘付けになっていたのだ。スクリーンには、競馬のレースが映し出されていた。
  レースが始まると、店内は一瞬で引きつめた静寂に包まれた。息をのんで見守る緊張感。そしてレースが進むにつれて、時折広がる驚きや歓喜の声。私の予想を遥かに超える情緒の渦が広がっていた。レースが終わると、人々から自然と湧き上がる拍手。涙を流す人さえ。やっと注文を受け付けた店員は、満足そうに「当たりました」と笑みをこぼした。少なくともこの時、イメージしていた野蛮な風景とは全く異なる何か引き込まれる深いものを感じさせる光景が広がっていた。
 その出来事がきっかけとなり、私はついに競馬場へと足を運ぶことにした。競馬場というと馬券売り場、賭け事が行われる場所というイメージがあった。しかし、その実態は全くと言っていいほど違っていた。そこは、深く根ざした歴史と風味豊かな文化が息づく場所であり、映画館のようなエンターテイメント、縁日のような民俗色、盆踊り会場のようなコミュニティ性、テーマパークのような非日常性が融合した、まさに活気に満ちたスペースであった。
 家族連れやカップルが楽しみながら過ごし、また、競馬場に居場所を見つけた人々が交流を深めるコミュニティも確かに存在していた。彼らは仕事や家庭にはない共感や安らぎを、この競馬場という特別な場所で見つけているのかもしれない。
 そして、一度目にした競走馬の姿には、その圧倒的な存在感と美しさに、思わず息を飲んだ。全身から力強さを湛えた筋肉の線が浮き出ており、その光景は、まさに頂点を極めた肉体美であった。光沢を放つ栗毛の肌から筋肉がしっかりと浮かび上がっており、これこそがアスリートを思わせる雄大さがあった。
 さらに、生の競馬は驚くほど速く、その迫力は初めてF1を観た時のような感動を呼び起こした。競走馬特有の芳醇な香りが会場を満たしていた。競走馬も、そしてジョッキーも、彼らは紛れもなくアスリートであり、最高のパフォーマンスを競う真剣なスポーツであることを実感した。
 さらには、国内だけではなく、凱旋門賞のような国際舞台でのレースも存在する。世界中の一流競走馬が集結し、神業を披露するその様子は、まるでオリンピックのような熱狂を生み出している。そのために、馬たちは国境を越えて移動する必要があるが、その際にはファーストクラスを飛び越え、VIPならぬVIH(Very Important Horse)な扱いを受けている。
 競走馬の生涯は、それが終幕を迎えるとき、新たな幕開けを迎えることもあると聞き、驚きと感動を覚えた。競走馬としてのキャリアが終了した後も、彼らは新たな章を迎え、種牡馬として未来の競走馬を育てたり、教育の一環として子供たちの心を豊かにする役割を果たす。ともすれば引退したアスリートが社会的地位や華やかさで悩むのと比べて、社会的地位を気にしないお馬さんたちは、必死にトレーニングしなくても毎日餌をもらえる引退後の余生が、悠々自適で居心地がいいのかもしれない。
 一方、競走馬の傷つきやすさとその結果に対する扱いは野蛮に思えた。しかし、それは本当に馬のためにされることだと理解すると、逆に馬たちに対する深い愛情と尊敬の念を感じた。蹄葉炎などの疾患は、馬にとって非常に重大な痛みを伴うものであり、それが原因でさらなる疾患や怪我を引き起こす可能性がある。治療を施すことで苦痛が増すことや、回復の見込みが少ない場合には、その苦痛から解放するために眠らせるという選択肢は、馬に対する真摯な愛情と尊重から来るものである。
 競馬という絢爛たる舞台は、馬主、生産者、トレーナー、ジョッキー、獣医といった多彩な関係者たちが創り上げる壮大な交響楽であり、彼らがそれぞれの役割を果たすことで、その音楽は一体となり、競走馬という名の輝かしいスターを支えている。彼らの微細な調整と愛情深いケアが、一頭の馬が駆け抜けるスピードと力を生み出し、競馬業界の絶えざる進化に貢献している。
 競馬の難しさは、機会や人間だけでなく、馬と共に行うという複雑さと深みから来る。駅伝、F1、競艇、競輪などのスポーツは、人間が自らの肉体を駆使するか、機械を用いて競い合う。その場合、アスリート自身が自分の体調や状態を管理し、調整することができ、機械は、部品の交換やメンテナンスにより、それを最高の状態に保つことが可能だ。
 しかし、競馬の舞台に立つのは生物である馬たちであり、彼らとのコミュニケーションは一筋縄ではいかない。馬は、いくら頭がよくとも人間とは異なる感性や感覚を持っており、疲労やストレスといった要素も日々変化する。私たちは馬に言葉を通じて直接状態を問うことはできず、彼らの体は機械のように部品を交換して元通りにすることもできない。
 それでも、馬たちが最高のパフォーマンスを発揮できるように、調教師たちは彼ら一頭一頭と深く関わり、彼らの心と体を理解しようとする。まるでF1のメカニックがレーシングカーを整備し、アスリートのトレーナーが選手をケアするように、調教師たちは馬たちの最善の状態を引き出すために、魂を込めて「チューニング」を行う。
 競馬に興じる人々は、一見すると単なる賭け事とも取れる行為の裏には、数え切れないほどの要素と無数の可能性が絡み合っていることを理解している。天候、馬の状態、ジョッキーの技術、対戦相手の力量、これらの複雑なパラメータを洞察し、自らの洗練された予想が正しいと証明される瞬間、彼らは賭けに勝ったよりも自身の慧眼が認められたという喜びを感じるのだろう。それは、彼らが買った馬券が運よく「当たった」のではなく、その勝敗を見極める一手を予測し「当てた」からだ。まるで、将棋の名人が対局中に見せる深遠なる洞察力と一線を画していない。一言で表現すれば、競馬は、絶えず刻々と変わる条件を読み解く鮮烈なインテリジェンスゲームなのだ。
 私の視点から見た競馬の世界は、これまでの経験を通じて劇的に変化しました。私たちがメディアを通じて目にするのは、大勝利やビッグマネーの話題、掛け金や倍率といった品のない要素ばかりであるが、これらは競馬の本質を捉えていません。真の競馬とは、多くの人々の情熱、努力、そして信念が一つのゴールに向かって結集し、最終的に大会の結果という形で顕現する物語であり、これはメディアが一般に注目するものとは異なる面である。私が競馬の様々な側面に深く触れていく中で、それは私の中で「下品なギャンブル」をはるかに超え「多彩な色を持つ素晴らしい文化」へと見事に変わっていった。
 今では、私にとって、競馬のギャンブルという側面は、その魅力を引き立てるほんのオマケに過ぎなくなっている。私は心から、競馬という深遠で魅力的な世界をより多くの人々が理解し、楽しむことができる未来を願っている。それは、私たちが競馬を一面的に見るのではなく、その豊かな多面性、情緒的な深さに目を向け、それを共有することで可能となる未来です。それこそが、我々が競馬という文化の真髄を味わうことなのだろう。

提出先

優駿

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