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ほんとうの想いを伝える優しさのために

優しさと弱さはある意味すごく近いところにあって、怒らないでいられることはある種の優しさかもしれないけれど、相手のためにならないこともある。ほんとうの優しさは、言いにくいけど言うべきと思うことを相手に伝えることだというのはよくわかっているのだけれど、なかなかそんなことできないよなあと思って生きてきた。

なぜ言えないかというと、やはり嫌われるのが怖いというのが一番の理由だなと思う。これは相手が誰であっても。友人でも恋人でも異性でも同性でも。

でもさいきん、嫌われたくないという気持ちはもっと突き詰めて考えた方がいいんじゃないかということを改めて思った。

嫌われないために思ったことを言えない関係をなんのために続けるのか。それは自分にとってどんな利益があるのか。たぶん、人生を長い目で見たらない方がいい利益なんだけれど、直近の、たった今の自分の弱さを守りたくて、嫌われたくないを選択するんだなと思う。というか私はそうしている。

そういう自分は、ほんとうはぜんぜん優しくない、ただの弱い人間なのだ。

これが、嫌われてもいいやにひっくり返るとめちゃくちゃ強い!ということに気がついた。人生でたまにしか訪れないシチュエーションだけれど、この人に嫌われてももう構わないと思える時がたまにある。

そう、たまにしかないのだ。

たとえばもう辞める会社だからと言っても、そこにいる人たちに、べつに最後に無駄に嫌われたくないなあと思う。嫌われていいと思えるのは、会う頻度とかそういうことでもない。

どうでもいい人には嫌われてもいいってことでもない。とりあえずなるべく人には嫌われたくないなと思って生きている。

逆に、誠心誠意を尽くして伝わらなかったら仕方ないなあと思えるくらいにはだいじな人であって、かつ、自分の保身とか弱さから解放されているときにできるのだと思った。そんな時はたまにしかない。

ここでもうひとつ大事なのは、伝え方だなあと思った。

たとえば100%の怒りを100%で返すメリットは誰にもどこにも何一つない。

誠心誠意を尽くせばいいのかっていうと、もちろんそれは根底にぜったいあるべきなんだけど、そうであれば伝わるかというと、必ずしもそうでもないと思う。受け手側の問題として。

わたしはたまにすごく時間をかけてnoteを書くのだけれど、その時に考えているのは、当たり前だけれど、どうしたら自分の個人的な思いがすこしでも伝わのるかということだ。

でも人に対しても、時にはそのくらい言葉を大事に扱うっていうことも必要なんじゃないかなーと思う。一年で何回か、くらいの頻度で。

何年も前に池上彰さんの講演を聞いたことがある。そのとき池上さんが言っていた誰にでも伝わる話し方というのが、確か小学5年生に伝わるように話すということだった気がする。6年だっけな。ちょっと曖昧だけど、まあ要するに、小学生に伝われば大体の人に伝わるということだ。

というのは、大人も結局、語彙が多かろうが経験が多かろうが、たとえばニュースを聴いて全てを理解なんてしていないし、特に喋りのスペシャリストでない一般人の話って実はよく分からないことも多い。日常会話はけっこう伝わっていないことも多いのだ。

ふと自分が家庭教師をしている友人の子どもと喋る時のことを考えた。たぶん要点しか言っていないし、ものすごくマイルドに話していると思う。同じことを何度もいうこともあるけれど、永遠に割と温和でいられるのは、自分の子どもでないからというのがあると思う。

自分の子どもに対して、ああ、こういうところ自分に似ていて嫌だなあとか思ったりしたら、そして日常一緒にいる時間が長かったりしたら、温和ではいられないだろうとは思う。

私の、友人の子どもに対する感覚は、子どものいない自分にとってすごく貴重であるし、そしてこの感覚を再現できそうということを思った。この感覚を誰に対しても応用できそうな気がしてきたのだ。

嫌われたくないから解放されて、これは伝えなきゃということを伝えるときに、友人の子どもと話す時の感覚を自分の中で再現するということは、ずっと置き去りにしてきた、私は優しくないなあという悩みから踏み出せたような感覚があった。

この気持ちをちゃんとまとめて書きたいなと思ったのだけど、一筆書きで書いてしまった。とりあえず。

いろいろな方にインタビューをして、それをフリーマガジンにまとめて自費で発行しています。サポートをいただけたら、次回の取材とマガジン作成の費用に使わせていただきます。