ハンセン病療養所である香川県の大島を訪れて
遅くなってしまったけれど、今年の10月、瀬戸内国際芸術祭の期間中に大島を訪れた時のことを書こうと思う。
瀬戸内国際芸術祭の秋会期に、スタッフとして女木島で働いていた私は、休日はいろいろな島を巡ってみたいという思いがあった。さすがに全ての島を訪れる時間はなく、どこへ行こうかと考えていた際、地元の方に「ぜひ大島に行ってきて」と言われ、その時に初めて大島の歴史を教えていただいた。
ハンセン病とは
大島にある「大島青松園」は、全国に13箇所ある国立ハンセン病療養所の一つ。そして大島は療養所がある場所の中では唯一の離島であり、島全体が療養所であるのが最大の特徴だ。
ハンセン病とは「らい菌」が主に皮膚と神経を犯す感染症で、感染し発症すると手足などの末梢神経や皮膚や目などに障害を引き起こす。外見にわかりやすく病気による変化が起きることで、世界中で差別や偏見の対象となり、様々な人権侵害を生み出してきた。
ハンセン病の感染力は極めて低く、また感染しても発症することはめったにない。そして治療法が確立された現代では完治する病気であり、予防や消毒などの特別な対策は必要のない疾患だ。
日本では1931年(昭和6年)、当時でも厳しい隔離などは必要がなかったのに、誤った知識による偏見のもと、ハンセン病患者を隔離の対象とし、生涯施設に入所させる「らい予防法」が制定された。そしてこれが1996年(平成8年)に廃止されるまで、ハンセン病患者を見つけ出しては療養所に隔離・強制収容するということが行われてきた。
1998年(平成10年)、熊本地裁に、翌年には東京・岡山でも「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟が提訴された。そして、2001年(平成13年)熊本地裁で原告(患者・元患者)が勝訴。国は自らの過ちを認め、新たに補償を行う法律もできた。
つい、最近の話である。
(簡潔にまとめてしまったが、ハンセン病について詳しく知りたい方はこちらのサイトなどをご覧いただきたい。)
私はハンセン病について、その病名やニュースになっていることはなんとなく知っていたが、その歴史がどれほどに凄惨であったかを詳しく知ったのは、とある講演会で樹木希林さんとドリアン助川さんから、河瀨直美監督の映画『あん』にまつわるお話を聞いてから。その1年後くらいに樹木希林さんが亡くなられた記憶があるので、おそらく5年ほど前の話。人生において、たいへんに遅かったと思う。
このような人権侵害が、戦前どころか自分が生まれてからも継続されていたことは、驚くべき事実だ。もちろん、多くの人の努力により、たとえば70年前と30年前とでは改善されてきた環境もある。けれど、薬で治る病気となった今でも、差別や偏見は残っている。
しかし、そういった歴史を知った自分も、たとえば東京都東村山市にある国立ハンセン病資料館にも行ってみたいと思いながら、未だ訪れていなかったし、瀬戸内海の島に療養所があることも知らずにいた。そんな自分を恥じながらも、是非この機会に大島を訪れてみたいと思った。
大島ツアー・作品鑑賞
大島は高松から高速船で30分。現在訪れるには予約が必要。(大島青松園のサイトより。)芸術祭期間中は、こえび隊のツアーに参加して30分間島を案内していただいた。
大島青松園の周辺の道路には、盲人の方が頼りに歩くために、道の真ん中に白いラインが引かれていたり、各所で2種類の音楽が流れていたり、杖で確認しながら歩くための柵がある。少し見慣れない風景に感じるかもしれない。
港からしばらく歩くと小高い場所に納骨堂がある。一人だったら立ち寄ることをすこしためらったかもしれないが、ツアーで訪れることができて良かった。
自分も他のお客さんもただ自然に手を合わせていた。そういう気持ちを持って、是非足を運んでいただきたい場所。ここから見える海も美しいのだが、なんとなく写真を撮る気にはなれず。
またこの近くには宗教地区という場所があり、様々な宗教施設が並んでいる。入所者はそれぞれ自由に宗教に属することができ、心のよりどころとしていたそう。
こちらのサイトでは、島内の写真や説明が非常にわかりやすく綴られている。
最初にツアーに参加できて、その後の作品や島のありかたも非常に捉えやすくなり本当によかった。
ツアー終了後は一人で島を周り、展示などを鑑賞した。それぞれに深く書いていくと2万字くらいになってしまいそうなので、簡潔に。
この後は、山川冬樹さんの『歩みきたりて』そして『海峡の歌』という作品を鑑賞。終戦後のモンゴル抑留中にハンセン病が発覚し、大島で暮らした歌人政石蒙さんにまつわる展示。
『声の禊』もこちらも、悲痛な声を、普段自分が捉えたことのない感覚器官から取り入れるような、とても不思議な印象があった。言い換えれば作品は、やや美しすぎるような気もしたし、けれどもこれらの声が全てテキストの羅列となって目の前に展示されていたら、私は全てを読み込めただろうかということを考えた。きっと、もっと浅い印象になっていたのではないかと思う。
誰かの声を、アートとして捉え直すことにとても深い意義を感じた。
次に、やさしい美術プロジェクトによる『稀有の触手』、そして田島征三さんの三作品を鑑賞。
屋内の展示はもうまったく写真を撮る気になれず、最後の方では涙が止まらなかった。
『Nさんの人生・大島七十年』-木製便器の部屋-は以前テレビで拝見したことがあった。
大島で70年を過ごしたNさんの壮絶な人生がそのままストレートに伝わってくる、とても力強い作品。検索をすればたくさん画像が出てくるので、気になった方は観てほしい。写真だけでも深く心に響くものがある。
ここまで作品を巡り、とてもつらい気持ちになっていたが、この島ではどこにいても少し歩けば美しい瀬戸内海の風景が目に入る。
その後、鴻池朋子さんの作品『リングワンデルング』へ。ここは昭和8年に若い患者たちが自力で掘った1.5キロメートルの散策路であり、隠れた瀬戸内の絶景を望むことができる。
その後道を下ると、と鎮魂のモニュメント『風の舞』がある。「せめて死後の魂は風に乗って島を離れ、自由に解き放たれますように」という願いが込められているとのこと。敷地内の火葬場にも手を合わせる。
港付近まで戻ってきて、最後に社会交流会館を鑑賞。この中にも多数の作品があるが、ハンセン病の歴史や島の暮らしを学べる展示も非常に見応えがある。特に大島のジオラマがとてもわかりやすく、最後に見ることができて全てのイメージがつながった感じがした。撮影禁止だったのが残念。自分用にジオラマを動画で残しておきたかった。
差別意識とは
大島を訪れてから、元ハンセン病患者の方の動画を何本も観て、大島で見知ったことがより立体的に捉えられるような感覚があった。
その中で何度も出てきたことば、隔離・差別・偏見。私たちはここ約3年の間に、近い言葉をかなり耳にしてきたのではないか。
新型コロナウイルスが全く未知のものだった時に感じた恐怖を、今は忘れかけているが、当時を振り返れば今とは全く違う感覚で事態を受け止めていた。
まだコロナの感染者がごく少数だった頃には、感染者の働く会社の支店名や、その人物がどんなルートで通勤していたかまでを全国ニュースで放送していたのである。当事者は周囲の人に絶対感染を知られていただろうし、どうやって過ごしていたのだろうかと思う。
私はたまたま日常ほとんど人と接しない職業であったが、どうしても必要な外出に際しては恐怖感があった。
今となっては周囲に感染を経験した人も多く、未だ感染者は減らないが、自分の行動様式は3年前に戻りつつある。マスクを着けるか着けないかくらいの違いだ。
テクノロジーや時代に全く関係なく、未知の恐怖は簡単に人を変えてしまうのだとつくづく思う。むしろ、テクノロジーは恐怖を助長しているのかもしれない。けれど、人を救う一端を担うのもまたテクノロジーであり、土俵を変えて我々は永遠に、人間の本質と戦い続けるのではないかと思う。
ハンセン病に関してのさまざまな映像を観るなかで、とある元病患者の方が「自分にも差別意識はある」と言っていた。それを認識することが大事だとも。私も常々そう思っている。残念だけど抱いてしまう感情をどう取り扱うのか。必要なのは学びであり、対話であると考える。
表現するということ
大島を訪れたくさんの展示を観て、帰りの船に乗りながら深く思ったのは、伝える難しさを乗り越え、勇気を持って表現するすべての人に、心から敬意を表したいということだ。
当事者であっても、そうでなくても、何かを表現している人に。
社会において大事にすべきことは無数にある。過去を知ること・未来への準備をすること・個人を、身近な人を、他人を尊重するのか何に重きを置くのか、それらに誰かが優先順位をつけることはできないと、私は考えている。
でもそういった生活の中で、わずかでいい、余力を誰かのために使えたらいいなと思う。自分にしてみたら、大島で観た数々の表現を誰かに伝えるということもそうかもしれない。
そして人は、簡単に忘れてしまうものだとも思っている。
なにか衝撃的な出来事があったとしても、当事者でなければ、今日思ったことを一年後も同じ熱量で思っていられるだろうか。なかなか難しい。だから、忘れてしまうことも一旦受け入れようと思っている。
けれど、思ったことを言葉にすることは続けていこうと思う。言葉にすることは準備が必要だし、時にとても難しい。けれど、心のなかで思っているだけではすぐに忘れてしまいそうなことを、もう少し色濃く自分の中に刻むことができる。
そしてまた違う物事に出会ったとき、それらを言葉にしたいという気持ちが、過去の記憶も繋いでくれるような気がしている。