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どうとりつくろっても自分

ネット上で様々な記事や短文の投稿を読みながら、この人の文章は本当におもしろくて、その活動にもすごく興味があるし、なんて素晴らしいセンスなんだろうと強く思うのに、じんわり冷たさが残るような読後感はなんなんだろう、ということをたまに思っていました。

この感覚を覚えることはたまにあって、なにが共通しているんだろうということをずっと考えていたのだけれど、ふと、ああ、この人たちは基本的にある種の人を見下しているんだなあと、(そして、その中に自分が含まれるのだなと)いうことを思いました。(私と関わりのない遠い人の話です。)

以前は、ネットって人間性をつくろえそうな気がしていたのですが、真逆なんだよなあと最近よく思うようになりました。

自分で編集して、写真や言葉を選んで伝えられるので、いいところばかりを切り取って見せられそうな気もするのですが、どんな編集がされていても投稿すればするほど、その人の人間性はその人らしく深まって見えてくるんだなあと思いました。

思っていることをそのまま書いているなということも、裏腹のことを書いているんだなということも、実は誰にでも伝わることなんですが、自分が書いているときだけ、他者目線になかなかなれないのも不思議なものだなあと自分でも思います。

自分もこうして毎日書けば書くほど、言い逃れができないことも増えていくんだなという思いはあります。

現に一年前の投稿とかを読んで、うわ~頭悪いなあ....とがっかりしたりもするのですが、そんなことを背負ってでも、重ねて書くことにはいろいろなメリットがあるとも思っています。

以前はてなブログで少しだけアフィリエイトをやっていて、読まれるためのブロクというものを意識して書いていた期間があったのですが、書く事も楽しくなくなってくるし、どこに行っても写真をちゃんと残そうとか思うことが面倒でまったく向いていないと思ってやめました。

noteでただ思いつくままに書くことは、ただ自分の記録でもあるのだけれど、思いがけないポイントで思いがけない人が読んでくれて連絡をくれたり、なかなか会えない友達に近況を伝えていられたり、全然知らなかった人とのつながりに発展したりしています。

書きたいときだけ書くことにすると、たぶん月2回くらいの投稿になるので、だいたいしょうもないことばかりなのだけれど、ほぼ毎日書くことを習慣にできてよかったなと最近思うようになりました。

(・ω・)

最初の方にもどって、自分が感じた「見下されている感」ってどんなものなんだろうと改めて考えてみました。

なんというか、この言葉こそがそうだ、というふうには言えないのだけれど、毎回2gくらい感じる、ごく小さな違和感が積み重なってくると、ああ、この人は自分(のような人間)を見下しているんだなあと見えてくる、としか言えないのですが。

でもたぶん、自分もこの文章だけを読んでいる人と初めて会って会話をしたら、私が思う私と、その人の思う私は全然違ったりするのかもしれません。

以前、自分の文章だけを読んでいて初めて実際に会った人に「もっと厳しい人だと思っていた!」と言われたことがあったので、そうか、そんなつもりは全然ないのだけれどと思ったのですが、まあ私にそういう要素があるんでしょう。これも聞くことができてよかったです。

文章を書き続けること、そしてそれを誰かが読むということは、自分でも気づいていない自分の面があぶりだされたりもしますよね。

それは自分でも怖いし、書かないほうが無難だなと思うことはあるのだけれど、やっぱり自分の中でメリットのほうが大きいなと思うし、それは楽しいことだけじゃなく、ときに自分の至らなさを知れることでもあります。

noteだからできた気もするので、noteがあってよかったです。

いろいろな方にインタビューをして、それをフリーマガジンにまとめて自費で発行しています。サポートをいただけたら、次回の取材とマガジン作成の費用に使わせていただきます。