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屋根と壁を持つということと大人になること

junaida展を見に行った。
彼の絵は、たくさんの家と階段が出てくることがある。
その絵の中に小さな自分になって入り込む想像をするのが面白かった。
階段を登ったり太鼓橋のような屋根を歩いたりして、結局一人になれそうな、雨風が凌げそうな屋外の場所を探して潜り込む。
気がつくと私は、想像の中でさえもけして屋内に入ろうとはしていなかった。

子供の頃、屋根と壁のある場所は大人の領分だった。
大人が所有する土地に建った大人の所有する建物なのだった。たとえ自分の領分であったとしても誰かと共有していたりする。
わたしの生活圏にいる大人たちは優しくて、誰かの所有する建物の中でこわい目にあったということはほとんどない。
それでもわたしは、わたしだけの場所がほしかった。

大分県の由布院に住んでいた小学生のころは、とにかく散歩していた。座れるベンチや岩には座って落ち着こうとした。座れなくても、何回も通って顔なじみになったような道は、安心した。誰も来ないお寺の図書室はわたしを受け止めてくれた。
中流の川の脇には土がたまって草が生えていた。その小さな土手に降りる箇所も、私は熟知していた。

中高時代、寮に住んでいた頃は木に登った。寝るのにいい場所を見つけてメタセコイヤにのぼり、ストールを体に巻き付けて蛹のように寝た。人間は案外上を見上げないもので、下を人が通ってもバレなかった。
生徒が勝手につけたハンモックで寝ていたら、見かねて教員が研究室に入れてカモミールティーを淹れてくれたこともある。
屋根だけがあって壁のない木工作品を置いてある倉庫のような場所でも、ストールを巻いて丸くなって寝た。まるで野良猫みたいだった。

大学生になって一人暮らしをさせてもらって、実質的に屋根と壁のある場所が自分の自由にできるようになったとき、その感覚にびっくりした。
屋根と壁は大人の特権で、自分は持てないものだと思っていたから、信じられない思いで布団から部屋を見渡した。この壁も屋根も私のためだけにあって、もう寒い中でストールを巻いて寝ることもないし、中に入りなさいと言われることもない。

誰を呼ぶも呼ばないも自由なのも面白かった。
飲みにきなよ、と誘った人と二人で歯磨きをしている時、全てがおままごとみたいに感じた。まだ自分も友達も子供で、大人の真似事をしているような。

おままごとはもしかしたら大人の自己決定への憧れなのではないだろうか。
食べるものも寝る場所も全てを自分で決めてみたいからではないのだろうか。

この世に、いつでも逃げ込める安全な自分だけの屋根と壁のある場所があるということが、どれだけありがたく稀有なことか。どれだけ安心できるか。大人になるということは、自分の手でそれを作れるようになるということかもしれなかった。
大人になってよかった。

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