何のために肩を組むか
個人(自分)が、チームにとって何のために存在しているかを考えたことはある。これはサッカー選手ならば無意識下で考えていることのはず、それがわからないと試合に出れないから。
ではチームは個人にとって何のために存在するのだろう?
これは、自分が仲間に何を求めるかということであり、同時に、目の前にいる仲間にとって自分が何のためにいるんだろうと考えることでもある。
肩を組んで今いる場所を飛び出す
チーム(つまりチームメイトにとっての自分、自分にとってのチームメイト)とは、このコンフォートゾーンを飛び出すための装置として機能するべきだと思う。
コンフォートゾーンを出る必要があるのは、普通じゃ手の届かない目標を手にするため、、目標を手にしたい理由は色々だと思うけれど、壁を越える経験、コンプレックスをぶちのめす体験は人生の豊かさを規定するものである。
でもこれは簡単なことではない。
居心地の良さに留まりたくなるし、それでもそこそこ幸せにはなれる。
誰にも責められないし、安全に暮らしていける。
それでも少なくとも僕たちは、去年達成できなかった「昇格」というターゲットを死に物狂いで獲りに行く。
そのために居心地のいい場所にとどまっていてはいけないのだ。
去年達成できなかったという事実は、今いる場所からでは届かないということの何よりの証拠である。
そんな立場にいる僕たちですら、日々の練習に慣れ、居心地のいい状態でゆるりと過ごしてしまうことがある。
慣れは人間の機能であって、どうしようもならないこともある。
どうしようもならないことは仕組みで解決をしないといけない、意思の力はアテにならない。
同じ目標を共有する仲間ならば、一緒に居心地のいい場所を飛び出すことが出来る。
練習中であれば、鼓舞をしてやればいい。一緒になって走ってやればいい。
飛び出せない仲間がいるなら手を引っ張ってやればいい。
達成したい目標を耳元で叫んでやればいい。
怠けてしまうことも願望を忘れてしまうことも罪ではない、都度思い出せばなんの問題にもならない。
そんな風に、肩を組んで毎日挑戦をし続けるグルーヴ感は代えがたい興奮である。
またそういったチームは外側へ影響を与える。
スポーツチームが人の心を動かすときは必ずと言っていいほど、チームメイト同士が互いに引っ張り合うグルーヴ感がある。
そうなっていたと気づいた瞬間、自分が所属しているチームは誇りになり、愛すべき場所に変わる。
自分が肯定されると同時に自分が肯定したいと思える環境は大切にするべき居場所である。
僕は今シーズン、
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