たぶん、ずっと
苦手なのに捨てられないものがある。
いや、正確に言うと無視できないといったほうが正しいかもしれない。
それは「コミュニケーション」という概念であり、言葉である。
学生のころから、ずーっと「話すの苦手だな」というおもいで生きてきた。
誰とでもうまく会話できる人に憧れていた。いま自分に足りないものはなんだろう。なにかしないと。
コミュニケーションに関する本を読んだり、積極的に話しかけてみたり、会話というものを研究してみたりもしてみた。
が、どれも一時的な効果はあるものの、長続きはしなかった。でも、これをなんとかしないと、社会生活に支障をきたしてしまう。焦りだけが募った。ただ、思った以上に根が深く、なかなか改善には至らない。
苦手なことは避ければいい。
それもひとつの対処法だが、なぜかその方法は採らなかった。あきらめればいいのに、それを捨てては自分でなくなる気がした。
大学生1年生の頃に、「表現」という授業があった。「これからやりたいこと」を原稿用紙5枚くらいにまとめるという課題が与えられた。
そこでぼくは、いま書いてきたようなことをつらつらと書いて提出した。1週間後、返ってきた用紙の余白に先生の寸評が書かれていた。
文章の上ではあなたはとても雄弁ですね
なるほど、コミュニケーションというのは「話す」ことばかりじゃないんだ。文字をやりとりすることでも「伝える」ことはできるんだ。目からうろこが落ちた思いだった。
いまは学生のころの焦りはないけど、「コミュニケーション」に対する苦手意識は消えないままだ。なんだかもうアイデンティティの一部になっている感もある。
あの頃と違うのは、「コミュニケーション」にはいろんな形があることを知ったということだ。会話や場の空気を読むだけでなく、文章や音楽、絵や写真などを通しても、コミュニケーションは可能だ。人に伝える手段はたくさんある。
正解はないのだ。これからも自分なりのコミュニケーションの形を探す旅は続いていく。たぶん、ずっと。
最後まで、読んでくださってありがとうございます!