嫉妬じゃなくて、それは、"さみしさ"だったという話


数か月前、友人(同僚)に婚約者ができたという報告をうけた。お互い営業職でタフな経験をつみ、いま同じ部署で働き、似たような不満・愚痴を共有し合った。プライベートではなかなか結婚できずその辛さと焦りを共有し合った、戦友のような存在だった。


わたし自身は、このしんどかった時期に悩みぬいた結果、『自分が心地よくいられること、自分を好きでいられること』が第一で、それは必ずしも結婚ではないよね、と受入れ始めていた。そんな中、天は思いもよらないハプニングを用意してくれる。いろんな幸運と縁にめぐまれ、わたしも今年の春に人生の伴侶を得た。

友人は、一方で、マッチングアプリも、紹介も、合コンもして積極的に婚活をした。そんな彼女から受けた"嬉しい"報告。

正直嬉しくもなんともなかった自分がいた。


これが自分が幸せになれていなかったら、妬み、嫉み、ひがみ、から来たものだろう、とわかるのだけど、全く解せなかったのが、自分だって幸せになったのに、である。


あまりのショックで仕事も上の空。カウンセラーに話を聞いてもらったら、”きっと今の生活やご主人に不満があるんだと思いますよ”と言われたりなんかして。『確かに仕事については、思うところあるし・・・』と納得もしたのだけど、それでもなんか腑に落ちないもやもや感。


だからすごーく考えた。


"会社の同僚ではなく、同じくらい仲がいい学生時代の友人だったらどうだったか?"

"自分のほうが職場で評価されていたら?"

"本当に好きなものを仕事にできていたら?"

………


それから2ヶ月経って、このもやもや感の正体をつかんだ気がする。

たぶん、これ、”寂しさ”だ。


自分が独身の時のような関係に帰れる居場所をひとつ失った寂しさ。

変わった自分が、変わらずにいられる、戻れる場所がまた一つ失ったことによる戸惑い。


この過程は供養に近い気がする。

怪物のような、わけのわからない感情が出てきて、振り回されて、友人に対して素っ気ない態度をとってしまったりして。自分で自分がコントロールきかなくなった感じがあった。でも、今感情の正体をつかんだことで、憑き物はとれた。



人は自分と近い人や似た境遇の人と比較してしまいがち、とよく聞く。今回の出来事も、そういうことかな?と思っていた。自分の境遇に対する隠れた不満がわかる、という、そういう方向性で考えかけていた。不満を明らかにして、それを解消するために、何かを考える努力をしかけるところだった。
でも、今回はそうじゃなかった。

大好きだった居場所をなくしてしまったのかもな、というそういう心の寂しさと焦りだったんだ。


結婚して、夫と日常がこの上なく幸せなんだけど、大好きな友人たちとの変わらない関係性を求めていたんだな、と。

だから結婚が幸せの十分条件にはならないんだってことなんだと、私はまた一つ実感したのです。



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