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「なぜその風景を描いたのか?」から作品と自分がつながった気がした

 大阪の中之島美術館で開催されている企画展「モネ 連作の情景」に行ってきた。

 美術館に足を運ぶことは滅多にない。だが、印象派の巨匠・モネの展示会と聞くと行きたくなった。美術には全く明るくないが、印象派の絵画は好きなのである。おそらく、淡く明るい色彩で、自然の風景や空気感を描いた作品が多いというところが、僕のツボにはまっているのだろう。

 今回の企画展は、第1回印象派展の開催150周年を記念したものである(「印象派」という名前は、この時モネが出展した《印象・日の出》という作品に由来するそうだ)。モネの作品が、印象派以前の初期の作品から、主に睡蓮をモチーフにした晩年の作品まで、概ね時系列に沿って紹介されている。

 副題の「連作の情景」は、モネが編み出した「連作」と呼ばれる手法——同じモチーフを題材に集中的に何枚も描くことで、季節や時間帯・天候による光や色の変化を表現した作品群——にちなむものである。が、実際に企画展を見た限り、そこまで連作にフォーカスを当てているという感じはなく、むしろモネの生涯と主な作品をざっと紹介した企画展だなあという感じがした。

 行って本当に良かったなと思う。上で書いたような、淡く明るい色彩で自然を描いた作品が多く、穏やかな気持ちで美しい風景を鑑賞できたからというのもあるし、その中で、色遣いの巧みさや水面の表現の繊細さに気付けたからというのもある。また、一人の芸術家の生涯を、ざっくりとはいえ知ることができたのも面白かった。

 ただ、今回の鑑賞経験を特別なものにしているのは、絵画と自分との距離感を変えたある出来事のお陰だと思う。

 今回の展示作品の中に、《クールブヴォワのセーヌ河岸》という絵があった。船の浮かぶセーヌ川と河岸の斜面や疎らに立つ家を描いた風景画だが、それらの前に葉をぎっしり繁らせた木が一本生えており、川や河岸の風景は葉や枝の隙間越しに姿を見せる形になっている(撮影NGの絵だったので、残念ながら画像はない)。

 僕は自分でも意外なくらいこの絵に魅かれた。それは、木々の葉や枝の隙間からその向こうに見える景色を眺めている作者に対して、「ああ、わかるぞ~」と叫びたくなったからだ。旅行先で自然豊かな公園や寺社を訪れた時に、そういう隙間越しの風景を写真に収めたくなることがある。先の絵を前にした時、僕は同じ感覚を味わった。

 その途端、風景を前にしてカンバスに描き留めようとする画家と、カメラを構えてシャッターを切ろうとする自分とが、どこかでつながったような気がした。

 印象派の特徴のひとつは、それまでの絵画が歴史や神話・聖書などの一場面をモチーフにしたのに対して、現実の風景の中に題材を求めたことにあるという。実際の風景と出会う中で、その一場面を切り取って絵画にしようという感覚。それは、旅先で、或いは日常生活の中で、ふとした場面を思わず写真に残したくなる感覚と、どこか似ているような気がする。

 それに気付いてから、僕は1枚1枚の絵を見る度、「どうしてこれを描き留めようと思ったのだろう?」と考えるようになった。或いは「僕だったらこの風景を写真に残そうと思えるだろうか?」と考えるようになった。

 その問いは、題材が平凡であるほど鮮明になった。展示作品の中に、夕暮れ時の田舎道を描いた絵があった。何の変哲もない道だったからこそ、「どうしてこれを絵にしようと思ったのだろう」という問いが自然に湧いた。だが、暫く考えているうちに、その感覚がわかるような気がしてきた。

 夕暮れ時、会社から家に帰る途中、ふと見上げた空の色を写真に撮りたくなる時がある。ぼんやり街を歩いていて、雲の流れ方に目を奪われる時がある。夜に散歩をしていて、等間隔に並ぶ電灯に照らされた一本道が、言いようもなく美しく見える時がある。

 もしかして、モネも同じだったのではないか。ある時パッと目にした風景の中に、意外なほど心惹かれるものを見出して、思わず筆を執ったのではあるまいか。

 この想像が正しいかどうかはわからない。でも、そう考えることで、僕は初めて、画家という存在と自分とが、どこかでつながっているのではないかという感覚を持つことができた。そしてまた、絵画という、何となく難しくて近寄りがたいように思えるものを、自分自身に引き寄せてまなざすことができた。そのことが、とても嬉しかった。

 もちろん、これは印象派が現実の風景の中に題材を求めていたからこそ可能だったことである。あまねく美術鑑賞で、同じことを経験できるわけではない。それでも、この小躍りしたくなるような経験は、どこかで自分の糧になってくれるにちがいないと、僕は思った。

(第218回 2024.04.21)

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