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電話で本を語らう~『おちくぼ姫』編~

 12月18日の夜、数年来の友人と電話で読書会をやった。この友人と僕とは、住んでいるところが大きく離れているので、直接会うことはなかなか叶わないが、ありがたいことに毎月のように電話で話す機会がある。元々は近況を話し合っていたのだが、ある時期から「コロナの影響で大変だね」という以外話すことがなくなってしまったので、同じ本を読んで感想を話し合うようになった。

 今回読んだ本は、田辺聖子さんの『おちくぼ姫』。日本版シンデレラと言われる古典『落窪物語』を、田辺さんが読みやすい現代語に訳し、さらに幾らかのアレンジを加えることで生まれた小説である。

 物語の舞台は平安時代の京都。源中納言という貴族の館に、一人の娘がいた。中納言の娘で、ある高貴な人を母親に持っていたが、小さい頃に母を亡くし、継母である北の方からは女中同然かそれ未満の扱いを受けていた。粗末な服と形ばかりの食事を与えられ、床の一段窪んだ部屋に押し込められている娘を、館の人は「おちくぼの君」と呼んでいた。

 このおちくぼの君に幼少の頃から仕えている阿漕(あこぎ)という女房がいた。阿漕は、本来ならば中納言の娘として遇されるべき姫様が酷い仕打ちに遭っていることに腹を立てていた。そこで、新婚の夫・惟成(これなり)に、いい人を紹介してくれるよう頼んだ。この惟成、なんと当時の貴族界で1、2を争う人気の貴公子で、出世街道をひた走る右近の少将という男と乳兄弟という関係(惟成の実母が少将の乳母で、幼少の頃から仲が深い)。惟成がおちくぼの君の話をしたところ、少将は興味を抱き、是非一度逢ってみたいと惟成に手引きを頼んだ。

 しかし、館の奥まったところで、存在を隠されたまま暮らしているおちくぼの君と、少将を引き合わせるのは容易なことではない。おまけに、阿漕は姫の結婚相手について1つ条件を出していた。それは、一夫多妻が当たり前のこの時代において、たったひとり、おちくぼの君のことだけを生涯愛してくれる人であるということ。生半可な気持ちで言い寄ってくる男を姫に会わせる気など、阿漕には毛頭ないのだ。果たして、おちくぼの君のシンデレラストーリーは、どのように進んでいくのだろうか。

 さらに、話はこれだけでは終わらない。北の方が、おちくぼの君の周囲の動きを黙って見ているはずがない。さらに、源中納言家の安泰と繁栄を願う彼女が、彼女自身の娘の結婚相手選びに、右近の少将に目を付けないはずもない。日本版シンデレラは、お姫様と王子様のラブロマンスだけでは終わらないのである。さて、物語はどのような展開を辿り、どこへ行き着くのだろうか——些か粗筋が長くなり過ぎた。ここから先はさすがに本編に譲ることにしよう。

 ここまでの書きぶりでお察しいただけると思うが、僕は『おちくぼ姫』を読んでこの作品をすっかり気に入ってしまった。メインのキャラクターが誰も魅力的だったし、ストーリーもテンポ良く、スリリングで、読んでいてとにかく楽しかった。2~3百ページの小説を読む時、普段なら1週間くらい時間がかかるのだが、『おちくぼ姫』はたったの3時間で読んでしまった。それくらい魅力的だったのだ。

 そうして良い本に巡り会えた幸福感を存分に味わった後、僕は読書会のことを思った。『おちくぼ姫』を課題本に推したのは友人だった。ただし、装丁に魅かれてこの本を買っただけで、中身は何も知らないという。友人はこの本を読んでどんな感想を持つだろう。その豊かな感受性でもって、この作品のどこに注目するのだろう。そんなことを早く聞きたいと思った。

 ところが、本来読書会が行われるはずだった11月下旬、友人が体調を崩してしまい、会は延期になった。そして12月18日、漸く開催される運びになったのであった。

     ◇

 というわけで、待ちに待った読書会に話を移していこう。と、大見得切ったはいいのだが——

 実を言うと、今回の読書会で、僕らは大した話をしていない。

「めっちゃ良かったね!」以外に、話すことが特になかったのである。

 友人もまた、『おちくぼ姫』をとても気に入っていた。キャラクターも、ストーリーも、文体も、どれを取ってもとても良いと言っていた。

 ところがそのために、僕らの話は、「面白かったね」「そうだね」「あのキャラのこのシーンだけどさ~」「わかる!」というだけのものになってしまった。もちろん、同じ本を読んで似たような感想を抱いた者同士、言葉を交わし共感し合うのは楽しいものだ。ただ、このような話はどうにも広がりにくいのである。結局僕らは早々に本の話を切り上げ、四方山話に興じることになってしまった。

 とはいえしかし、折角書き始めた読書会レポートを、これだけで終わらせてしまうのは忍びない。というわけで、1つテーマを設けて、それに沿う形で読書会、そして『おちくぼ姫』の内容を振り返ってみることにしよう。

 そのテーマとは、「古典と現代の橋渡し」である。

 本の感想を一通り言い終わった頃、友人が次のように言った。

「もっと早くこの本と出会えてたら良かったのにな~と思う。そしたら古典の授業ももっと楽しかったのに」

 それは僕も同感だった。古典と聞くと、それだけで何だか難しいもの、お高いものという気がして一歩身を引いてしまうところがある。しかし、この『おちくぼ姫』という作品に、とっつきにくさは全くなかった。むしろ、ドキドキワクワクの純粋なエンターテインメント小説という感じがして、どんどんのめり込んでいったくらいだった。一方でこの作品には、平安時代の常識について、物語のテンポを損なわない形で解説が挿入されてもいる。当時の人々に思いを馳せつつ、今の自分たちの言葉で読めるように、様々な工夫が凝らされているのである。確かに、こういう作品に出会えていたら、古典はもっと近寄りやすいものになっていたと思う。

 そういえば、今回の読書会が始まって友人が真っ先に指摘したのは、この作品に見られる、驚くほど親しみやすい古典の意訳ぶりであった。

「白馬の王子様って言い回しが出てきてビックリしたんだけど」

 その言葉が出ていたことに気付かなかった僕は、急いで本文を読み直した。それは物語の後半で、ある人物が言う台詞の中にあった。

「とうとう、現れたのだわ。あなたは物語の、白馬に乗った王子さまなんだわ、わたくしにもそんな人が、とうとう現れたんだわ……」

(田辺聖子『おちくぼ姫』角川文庫、1990年、194頁)

 千年前の日本に、お姫様を迎えに来る白馬の王子様がいるわけがない。これはどう考えても意訳だと、友人は言った。「原文がすごく気になる」とも言った。

 しかし、友人はただ意訳に驚いただけではない。上の話に続けて、次のように語り出した。

「でも、千年前の人が物語を目にした時の親しみやすさはこんな感じだったんじゃないかなと思うと、これも悪くないなという気がしたんだ」

 僕は全く恐れ入った。テキストの中に1回出てくるだけの白馬の王子様という言葉を、友人は見逃さなかった。そして、それが相当の意訳であることを的確に指摘しただけでなく、平安時代の人々が原文を読んだ時の印象と、僕らが白馬の王子様という単語を読んだ時の印象は近いのではないかというところまで、しっかり想像を働かせていたのである。やはりこの人の感受性は並大抵ではないと、僕は思った。

 それと同時に、中高生の頃に古文の先生が繰り返し教えてくれたあることが思い出された。それは、古文とは平安時代の人々の話し言葉である、ということだ。当時の社会では、正式な文書は漢文で書かれていた。古文はやまとことばであるから、書き言葉ではなく話し言葉だったのである。

 ということは、我々は意味を取るだけで苦労する『落窪物語』の原典も、当時の人々にとってはブログ感覚で読めるものだったということになる。田辺さんの『おちくぼ姫』はさすがにそこまで話し言葉に寄せているわけではないけれど、少年少女文学全集に載っていてもおかしくないくらい分かりやすい。白馬の王子様という言葉さえ出てくる。だから確かに、僕らが『おちくぼ姫』を読む時の感覚は、平安時代の人々が『落窪物語』を読む時の感覚に近いのかもしれない。

 友人が体調を崩している間に、田辺聖子さんが現代語訳した『とりかえばや物語』を読んだ。その「あとがき」に、田辺さんは次のような言葉を残している。

 わたしはいままで古典の現代語訳によって、若い世代と古典との橋渡しをする、その仕事をたいせつに思ってきた。

(田辺聖子、『とりかえばや物語』あとがき、文春文庫、2015年、226頁)

 田辺さんは確かに、古典と現代の橋渡し役だったのだと、僕は今回の読書会を通じて強く感じたものだった。そしてそれは、友人のお陰で気付けたことでもあるのだった。

(第114回 12月24日)

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