見出し画像

『四畳半タイムマシンブルース』映画鑑賞&舞台巡り

 先日読んだ森見登美彦さんの小説『四畳半タイムマシンブルース』の劇場版を、京都の映画館で鑑賞した。それからその足で、作品の舞台やモデルになった場所を幾つか回った。

 劇場アニメ『四畳半タイムマシンブルース』は9月30日に公開された。僕はその時になって「機は熟した。原作を読むぞ!」とひねくれたことを考え、本当にその通り原作を読んだ。すると想像以上に面白く、さらにヘンテコな影響もたっぷり受けた。そんなわけで、「これは劇場版も見てみようかな」という気が俄かに起こった。

※読了後に書いたヘンテコな記事はこちら

 劇場版は3週間限定公開となっていた。しかし僕は動じなかった。大手の映画館で上映が終わる頃、後を追うように上映を始める映画館が必ずある。慌てることはない。そう考えた。

 果たしてその予想は的中し、近所の映画館で間もなく上映が始めるという情報が出た。しかし同時に予想外のことが起こった。少なからぬ映画館で追加上映が決まったのである。その中には、京都の映画館もあった。

 僕は考えた。作品の舞台は京都である。折角だから映画は京都で観よう。そしてそのまま舞台巡りに出掛けよう。

 そして、考えた通りのことを実行に移した。

     ◇

 劇場版は原作を忠実になぞった作品だった。話の順序などは一部入れ替えられていたが、ポカンとしてしまうような改変はなく、落ち着いて観ていられた。個人的には話の展開が些か早い気がしたが、「テンポが良かった」という人もいるので、観る人次第であろう。

 これだけはどうしても言っておかなければならないと思うのだが、ヒロインの明石さんが良かった。明石さんは元々、今作の元ネタである『四畳半神話大系』のヒロインである。怜悧でありながら時折可憐な一面を覗かせる黒髪の乙女というキャラクターであったが、『四畳半タイムマシンブルース』では、前作同様のクールでテキパキした面に、どこかポンコツな面が加わっていたり、感情表現が豊かになっていたりして、可愛らしさがプラスされていた。そして今回映像化によって、細かな仕草や動きが加わり、より活き活きとしたキャラクターになっていた。

 明石さんが良いという話は前々から聞いていた。数日前には、森見さん自身がブログで「もはや原作者でさえ恋に落ちるレベル」と書いているのさえ目撃した。正直な話、自分で生んだキャラクターに恋に落ちる作者には、ファンなりに驚いたものだったが、映像を観たら「これは仕方がない」という気持ちになった。それを実感できただけでも、良かったと言うほかない。

     ◇

 京都駅前の映画館を出た僕は、それから七条まで歩き、京阪電車に乗って出町柳へ向かった。『四畳半タイムマシンブルース』の舞台は、出町柳界隈に集中している。映像化に当たってモデルとなった場所は京都各地に散らばっているのだが、まずは物語が動く場所へ向かうことにした。

 出町柳駅を出て最初に向かったのは、下鴨神社だった。『四畳半タイムマシンブルース』の舞台は夏の京都で、作中には下鴨神社の境内で開かれる納涼古本市が登場する。今の季節、古本市はもちろんやっていないが、作中に登場する場所であることに変わりはない。

 下鴨神社は森見作品にはよく出てくる場所で、これまでにも何度か訪れたことはある。しかし、考えてみれば足を運んだのは久しぶりのことだった。先日、以前訪れた時の記録を読み返していると、すれ違った参拝者が「ここは空気が綺麗」と話していたという記述があった。そのことを思い出し、めいっぱい息を吸おうとしたら、口にマスクがまとわりついた。随分時が経っていた。

 境内の入口近くにある河合神社にまずお参りし、それから糺の森を抜け、下鴨神社にお参りした。神社を後にした僕は、途中で左に折れ、住宅地に出た。実はそこが、今回特に行っておきたい場所の1つだった。

『四畳半タイムマシンブルース』に、下鴨幽水荘というオンボロ学生寮が登場する。その所在地が、下鴨神社と高野川に挟まれた一角なのだった。下鴨幽水荘のモデルは、京大の吉田寮と聞いていたので、僕はてっきり下鴨幽水荘は吉田寮と同じ場所にあるものと思っていた。しかし、今回原作を読んだ時、そうではないことに気付いたのである。

 下鴨幽水荘の所在地を散策したい。それが僕の狙いだった。

 そこは本当に単なる住宅地だった。ところどころに古い家があったが、どれも一戸建てで、集合住宅はコンクリート製の社宅か、それよりもっと新しくて綺麗な建物ばかりであった。その間を縫うように細い路地が張り巡らされており、そこを歩いていると、新聞配達の自転車と何度かすれ違った。その自転車だけ、少し前の世界から抜け出てきたような感じがした。遠ざかる自転車を追うように視線を上げていくと、建物と建物の間から大文字山が見えた。

 現実の風景の上に、妄想のオンボロ学生寮を思い描くのは容易なことではない。しかしここに下鴨幽水荘はあるのだということを、僕はなるべく感じ取ろうと努めた。

 それから僕は高野川を渡り、元田中の方へ向かった。『四畳半タイムマシンブルース』にはオアシスという名前の銭湯が何度か登場する。その所在地は、下鴨幽水荘から高野川を渡った先の住宅街と書かれていた。その方向へと歩を進めたのである。

 劇場版に登場するオアシスには、モデルとなった銭湯がある。それは元田中とは全く別の場所にある。しかし、僕はまず、作中でオアシスがあると書かれている場所へ行ってみたかった。

 高野川を渡り、叡山電車の踏切を越えると、全き住宅街に入った。その路地を抜け、大通りへ出ると、雑居ビルに囲まれるように建つ銭湯があった。僕はそこまで行って「うむ」となり、元来た道を引き返した。

 下鴨神社の近くまで戻った僕は、鴨川デルタへ向かった。鴨川デルタは、京都の市街地に北西から流れ込む賀茂川と、北東から流れ込む高野川が合流し、鴨川になる地点である。『四畳半タイムマシンブルース』では、最後の場面で鴨川デルタが登場する。下鴨神社と同じく、鴨川デルタも森見作品にはよく出てくる場所の1つであるが、今作に登場する鴨川デルタの描写は、これまでで最も美しいと僕は思った。

 歩き疲れていた僕は、デルタの途中に腰掛けてしばしぼうっとした。それから、作中のキャラクターたちがそうしたように、飛び石をつたって鴨川の西岸へ出た。

     ◇

 この時点で、空は既に暗くなり始めていた。しかし僕にはもう1つ行きたい場所があった。銭湯オアシスのモデルとなった場所、源湯である。

 源湯は、北野天満宮とJR円町駅のほぼ中間地点に位置する。出町柳から見ると、南西へ4㎞弱行った場所だ。僕は当初歩いていくつもりだったが、流石にそれは断念し、市営バスを使って行くことにした。

 源湯へはただ行けばいいというのではなかった。僕はここで実際に銭湯に入ってみたかった。もっともそれは、作中のキャラクターたちと同じことがしたいからというより、単純に銭湯というものに入ってみたいからだった。温泉地へ行くのならともかく、京都へふらりと出掛けて行って風呂に入って帰るなど、なかなかあるものではない。だからこそ、やってみたかった。

 入口の扉をガラガラと開けると、下駄箱の並ぶ玄関があり、そこから階段を上がったところが番台だった。番台と言っても、昔の映像でよく見るような、男湯と女湯の間に狭い台があり、そこに主がどっしり構えているというのではなく、飲食店の会計などで見かけるカウンタータイプのものだった。

 そのカウンターの上に、面白いものを見つけた。ヴィダル・サスーンのシャンプーである。これも『四畳半タイムマシンブルース』に登場するアイテムだ。主人公の隣の部屋に住む謎多き学生・樋口清太郎の愛用のシャンプーがヴィダル・サスーンなのである。しかも樋口氏のヴィダル・サスーンは、氏が銭湯オアシスで使ったのを最後に、何者かに盗られてしまう。樋口氏は作中で、ヴィダル・サスーンの行方を追い続けている。

 入湯料とレンタルタオル代を払った僕は、それからヴィダル・サスーンを指さし、「こちらもお願いします」と言った。番台の男性は「ありがとうございます」とにこやかに笑い、追加の会計をしようとする僕に、「盗られないように気を付けてください」と言い足した。僕は嬉しくなって言葉を返したが、その内容はかなりのネタバレになってしまうのでここでは割愛する。

 男湯の中は、青白いタイルが敷き詰められたいかにも銭湯らしいものであった。入って左手に大きめの浴槽があり、一番奥まったところによもぎ湯があった。右手にはシャワーが並び、手前に超音波風呂と、作中にも登場する電気風呂があった。そして、シャワー側の壁には、劇場版『四畳半タイムマシンブルース』の場面の切り抜きが並べられていた。

 僕は「私」と悪友の小津が下宿の部屋で取っ組み合いをしている軟弱な絵の前に陣取ると、早速ヴィダル・サスーンで髪を洗った。なるほど、樋口氏の言う通り、指の入りが滑らかになったような気がした。それから何の変哲もない要領で体を洗うと、一番大きな浴槽に浸かった。

 大浴槽は真ん中で2つに仕切られており、入り口側は肩まで浸かれる深い湯船、奥側は腰までの高さの浅い湯船になっている。僕は浅い湯船に入ったが、暫く座っていると体の上までポカポカしてきた。お湯は熱めだったが、長く浸かれないというほどではなく、気持ちがよかった。

 そこを出ると、一番の目玉と言うべき場所に向かった。電気風呂である。

 手を入れた瞬間、ビリッときた。想像以上に強かった。ピリピリと電気が感じられるというレベルではなかった。僕はいま一度慎重に、足を、腰を、手を、胴を、電気風呂に浸していった。腰と肩に当てようと思ったのだが、上手くいかなかった。その前に腕がビリビリとしびれてしまいそうだった。やっとの思いで肩まで浸すと、激しく揺さぶられるような衝撃があった。長居は無用。僕は急いで電気風呂を出た。

 それからは、深い浴槽に入ったり、超音波風呂に入ったり、よもぎ湯に入ったりというのを順番にやっていった。随分温まったらしく、1つの浴槽でじっとしているのがだんだん難しくなってきた。結局、30分ほどで上がることになった。

 着替えが終わると、番台でサイダーを買って休憩室へ行った。休憩室は年季の入った畳敷きの部屋で、座椅子や座布団、足を伸ばせる椅子などが置いてあった。僕は椅子に腰かけてサイダーを飲んだ。二間はあろうかという休憩室に僕以外のお客はなく、エアコンの唸る音だけが響いていた。湯上がりでぽかぽかしていた僕は、時が経つのも忘れて、その空間に溶けてしまいそうだった。

 よしと思ったところで、源湯を出た。僕はそれからバスで西院まで出て、阪急電車で帰路に着いた。混み合う車内で、僕は殆ど眠りに落ちていた。

(第93回 10月30日)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?