見出し画像

ひじき氏、阿呆風邪をこじらせる

 十月三連休からの一週間、結末のある文章など何一つ書いていないことを断言しておこう。書き切れなかった記事を一掃し、両親と墓参りかたがた旅行して尾道を満喫し、久方ぶりにオフラインの哲学カフェに参加するなど、芸術の秋に執筆に邁進するための盤石の環境を整えながら、帰宅早々のベッドイン、ネットサーフィンへの埋没、睡魔への従順によりみすみす好機を逃したのは、なにゆえであるか。
 
 責任者に問いただす必要がある。責任者はどこか。

 ——ん? 昔こんな文章をどこかで読んだ気がする。

     ◇

 三連休の最終日に、森見登美彦さんの小説『四畳半タイムマシンブルース』を読み終えた。同作は、森見さんの代表作の一つである『四畳半神話大系』と、森見作品のアニメ化に際し脚本等を担当した上田誠さんの代表作である『サマータイムマシン・ブルース』が融合を遂げた作品で、『四畳半神話大系』の個性だらけの登場人物たちが、『サマータイムマシン・ブルース』のシナリオのように、真夏の下宿に忽然と現れたタイムマシンに乗って、昨日と今日を往き来するというポンコツ青春群像劇である。

 主人公は、華のキャンパスライフとは無縁の大学三回生である「私」。暑い京都の夏で溶けそうになっている「私」の生活に光明をもたらすもの、それは、オンボロ学生寮・下鴨幽水荘の中で唯一、「私」の住む209号室にのみ存在するクーラーだった。ところが、悪友・小津の悪ふざけにより、リモコンのクーラーが壊れてしまう。炎熱地獄に投げ出された「私」と仲間たち。その前に突然、タイムマシンが現れた。

 タイムマシンで昨日へ行きリモコンを取ってくれば、クーラーが復活する! 「私」たちは早速時間旅行に出掛けるが、その時、仲間の数人が問題に気付く。リモコンを取ってくると、壊れたリモコンはなかったことになり、昨日の世界に矛盾が生じる。それは世界消滅の危機ではないのか——「私」は後輩の明石さんと共に、昨日の世界を元通りにすべく奔走する。しかし、残る仲間は小津をはじめ、癖の強い自由人ばかり。おまけに、タイムマシンに乗ってきたという未来人まで現れ、状況は混迷の一途を辿るばかり。かくして、京都のオンボロ学生寮とその近所を舞台に、昨日と今日を往き来しながら、世界の危機を救うという、スケールが小さいのか大きいのかわからない話が展開する。

 率直に感想を述べると、面白かった。メチャクチャ面白かった。これぞエンタメ、これぞ群像劇、これぞ腐れ大学生の青春物語、といった感じである。おまけに、こんなメチャクチャな話であるにもかかわらず、ちょっと深い内容もあり、それが作品に不思議な奥行をもたらしていた。しかし、何がどう深いのかは敢えて記さないでおこうと思う。それを予期せず読むから良いのである。気になったという方には、直前の3センテンスは忘れて、純粋に面白いものを読みたいという好奇心に身を任せることをオススメする。

 ところで、僕は面白い小説を読んで、それで満足したはずであった。読書会などで話すことはあっても、それはそれとして、会社員と日記書きからなる日常に戻るはずであった。ところが、現実は思わぬ方向へ転がり始めている。僕が暫く何も書かずにいたのは、詰まるところ怠けたからである。しかしもう1つ、マジメなものを書くのがイヤになったという理由もあった。

 そう、僕は『四畳半タイムマシンブルース』の風に吹かれたがために、「阿呆なものが書きたい病」に罹患してしまったのである。

     ◇

 罹患、いや、正しくは再発と言うべきかもしれない。

 僕はかつて、この恐るべき病に慢性的に囚われていたことがあった。社会人になって初めの数年のことである。それはちょうど、僕が森見登美彦さんの作品を読み始めた時期であった。

 世の多くの森見登美彦ファンは、学生時代かその前に森見さんの作品に出会っているらしい。華はないのに面白い、等身大でありながら憧れの的でもある青春物語を前に、「願わくは自分もあのような生活を!」という欲望を掻き立てられるのだという。そんな作品群に、僕はあろうことか、学生生活が終わった直後に出会った。

 難しい顔をした人たちが淡々と、さして面白そうな素振りを見せることもなく仕事に勤しむ世界の入口に立たされた僕にとって、森見作品は炎熱地獄中のクーラーの如く、輝きを放つ存在であった。僕は世界中の全てのものを、森見登美彦フィルターを通して見ようとした。

 僕はその頃からブログを書いていたが、当時の書きぶりは明らかに森見さんの文体を意識したものだった。それらの多くは、今となっては目も当てられないような酷いもので、ただ古風な言葉を使って回りくどい書き方をしただけの駄文に過ぎないが、とにかく僕はあらゆる手を尽くして、阿呆な世界を現出させようとしていた。その点にかけては一生懸命だった。

 しかしそれは、社会的有為の人材として全うに生きていかなければならない時を迎えた人間にとっては、危険というほかない事態であった。おまけに、もとより度が過ぎていた。僕は元々面白おかしいことを言葉巧みに表現できるような人間ではなかった。面白いとはどういうことかを考えたことも、なぜ森見さんの作品は面白いのかを研究したこともなかった。僕がやっていたのは、ただ上っ面をつまむだけの猿真似に過ぎない。世界森見登美彦化計画は、最初から身の丈に合わなかったのだ。かくして、社会人であるという環境的要因と、僕自身の性格的要因に挟まれるようにして、阿呆風邪は次第に弱体化していった。

 先だって、友人との読書会に向けて、森見登美彦さんの『新釈・走れメロス』を再読する機会があった。その際、「森見さんの文章って、こんなに淡白だったかな?」と思った。初めて目にした時、その文章は古風な格調を備えつつも、どこかぴょこぴょこ跳ね回っているように見えた。青春の王道を踏み外し、京都の片隅で悶々としている腐れ大学生たちのヘンテコな生態を、「どうです、面白いでしょう?」と見せて回っている、そんな印象を持った。しかし、数年振りに同じ文章に接してみると、そこからはただ澱みなく流れていく綺麗な文章であるという意外、特に何の印象も受けなくなっていた。

 すっかり変わってしまったんだなと、僕は感じた。阿呆ウイルスは滅び、僕は森見さんの作品を、他の数多ある本と同じように、じっくり読むことができるようになったのだと思った。

 しかし、それは大いなる間違いだったと言わねばならない。

     ◇

『四畳半タイムマシンブルース』を読み、僕は再びあの恐るべき病に冒された。何気なく過ぎる日々の裏側で、阿呆風邪ウイルスはじわじわと体を蝕んでいた。目の前の世界がヘンテコなものに書き換えられことはなくなった。しかし、四角張った文章を書くことに対しては拒否反応が出るようになった。

 尾道の話も、哲学カフェの話も、もちろん書きたかった。満を持してそれらを書くために、書ききれずにいたオンライン哲学カフェの振り返りを、他人様のブログの紹介で切り抜けるという荒技すら使ったのである。しかし、思いも寄らぬ伏兵によって、計画は破綻した。

 僕はゴロゴロしながら身悶えした。ああ、オカシナものが書きたい。阿呆なものが書きたい。しくじってもいいからヘンテコなものが書きたい。しかしネタはない。

 僕はそのままゴロゴロし続けることしかできなかった。 

     ◇

 これは唾棄すべき反省文である。
(第89回 10月15日)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?