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「疲れまい」とすることの罠?

 「何もない日常に、小さな物語を」と銘打って、日・月と連続で記事を投稿した後、noteの更新がぱったり途絶えてしまった。三日坊主という言葉があるが、僕は三日すら持たなかった。

 理由は色々考えられるが、一番大きいのはやはり「仕事で疲れたから」だろう。日中たっぷり頑張ったのだから、家に帰った後はのんびりだらだらしたい。仕事を離れても趣味や勉強に精を出している人がいることを思うと、考えが甘いなあと思うこともあるが、結局だらだらしてしまう。

 そんな中、最近手に取った河合隼雄のエッセイ『こころの処方箋』を読み進めていて、興味深い考えに出会った。

 同書は、有名な臨床心理学者が書いた、身近な心の悩みにまつわる連載をまとめたもので、文庫本で4ページの短いエッセイが、全部で55編収録されている。その中に「心の新鉱脈を掘り当てよう」という章があった。その内容は、おおよそ次のようなものだ。

 人間には、身体的なエネルギーだけでなく、心のエネルギーというものもある。心を使うと、それだけ心のエネルギーも消費するので、人はエネルギーを節約しようと考える。ところが、不必要なことにエネルギーを使うまいとしている人は、仕事などエネルギーが必要な場面でもいつも疲れた表情を浮かべるようになっていく。むしろ、趣味や好きなことにエネルギーを費やしている人の方が、仕事にも意欲的になっているという例は珍しくない。

 人間においては、エネルギーの消耗を片方で押さえると片方で多くなる、というような単純計算は成立しない。何かにエネルギーを費やすことが、かえって他のことに用いられるエネルギーを増加させることもある。人間の心のエネルギーは、多くの鉱脈の中に埋もれていて、新しい鉱脈を掘り当てると新たなエネルギーが供給されるようになっているようだ。

 手持ちのエネルギーだけに頼ろうとして節約ばかり考えている人は、宝の持ち腐れのようなことになってしまう。場合によっては、眠っているエネルギーの暴発が起きることにもなる。新しい鉱脈を掘り当てて、エネルギーを上手に流していく方が、好ましいかもしれない。

 決して目新しい考え方ではない。だが、文章の形でまとめて提示されてみると、ハッとさせられるものがあった。

 確かに、最近の僕には、「自分の持っているエネルギーには限りがあるから、どこかで多く使ったら、その分他で使えなくなるのは仕方がない」と、端から決めてかかっている節があった。仕事で頑張ったら、エネルギーが枯れても仕方がない。家にいる間は、エネルギーを余計に使わず、むしろ充填することを考えなくてはならない。だが、それは拙速な考えだったのではあるまいか。

 エッセイの中で書かれていたのは、新しいエネルギーの鉱脈を掘り当てようということだったが、本当に大切なのは、やりたいことや興味のあることを見つけて、やってみることだと思う。実際『こころの処方箋』には、「やりたいことは、まずやってみる」とか、「人間はまず自分の好きなことをすることが大切である」といった話が随所に出てくる。これもまた、ごくありふれた考え方だ。しかし、エネルギーの節約にばかり気を取られていると、こんな普通の考え方すら忘れてしまうものらしい。

 さて、こうやって久しぶりに、最近思ったことや考えたことを書き起こしているだけでも、ちょっと気持ちが落ち着いた気がする。どうやら僕には、ちょっとした文章を気ままに綴っていくことが必要なようだ。

(第217回 2024.04.20)

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