夜明けの追憶 ❶

 あの頃は何もかもが、存在していたものの全てが、良かった。僕らにとっての世界とは、未だ見ぬものの溢れかえる日々であり、その日々を生きることはまるで冒険だった。本当に何もかもが、僕たちには完璧だったのだ。お互いの揺るぎない信頼、安心、そしていつまでも一緒にいるのだろうという確信。あの頃の僕らに、果たして想像できただろうか。僕らは離れ離れになって、こんな風に過去を懐かしく思う時が来ると。もう二度と戻ることのできない青春の日々を、ふとした瞬間に何度も何度も頭の中で反芻していることを。そうしてこんなにも切なくなって、やりきれない虚しさと共に生きることになるだなんて、一体どうして想像できただろう。結局、僕の中の時間はあの頃からずっと永遠に止まったままでいる。

 全てが始まったのは、やけに蒸し暑い夏の日だった。彼と出会った最初の日で、今でも鮮明に覚えている。ニュースは連日のように気温の記録更新を叫んでいた。そんなに毎日、最高記録を更新されてはたまったものじゃない。橋田譲(はしだじょう)は暑さに悶えてベッドから上半身を乗り出し、天井を見つめている。部屋の中では蠅が譲の耳元でうるさく唸っていたが、それを追い払うのも億劫で微動だにせずいた。八月の空は青く、どこまでも声が届きそうで何だか世界と自分が一体化したような気さえした。ラジオからはクラシック音楽が流れている。ふいに鬱陶しくなって消そうとするも体が重くて動かない。諦めて目を瞑り、辺りに耳を澄ました。
 二階にある譲の部屋の窓の外から母の声が聞こえる。どうやら母は洗濯物を干すために庭に出ていて、隣に住むおばさんの長話に捉まってしまったようだった。その隣人は見た目がとても若く見えるうえに話し方があまりに実年齢に相応しいものだから初見の人が彼女の声を聞いたら違和感を覚えるに違いない。
 「__それでね、越してくるらしいのよ!」
 隣人の甲高い声が、湯船に長時間浸かってのぼせたような譲の脳に刺激を与えた。
 「どこへ越してくるんです?」
 母が尋ねると、隣人は待ってましたと言わんばかりに母を捲し立てるようにはきはきと喋り始めた。
 「お宅の二つ隣よ、ずいぶん前からだぁれも住んでいなかった空き家!あそこ豪邸で綺麗なわりに買い手がつかなかったの、不思議だって前に言ってたでしょう、あたしが。あそこに越してくるの、綺麗なお母様と息子さん!ついこないだ少し挨拶したけど__」
 少しなものか、絶対にそのうんざりする声で彼らを長時間縛り付けたに違いない。譲は耳の穴に入ってくる外からの声と、蠅とクラシックの奏でるハーモニーを聞きながら、そっと目を開けてまた天井を見つめる。天井には雑に塗られた真っ白なペンキが波打っている。これは入居したての頃、三年前に離婚して出ていった父親が塗ったもので、父はよくこの失敗作を「芸術」と呼んでいた。他の壁はどういうわけか淡い桃色とベージュが混じったような色で塗られていて、これもまた父の「芸術」作品なわけだ。ずっとこの部屋にいると、色の効果が作用してなのか余計蒸し暑く感じる。エアコンはないし扇風機は冷風じゃなくて温風を運んでくる。外に出れば太陽に照らされて熱中症になりかねないものだから、譲は真っ白な天井に助けを求めるほかなくなってしまった。
 せめて、何か冷たい飲み物でも持ってこようか。でも歩いて下に降りるのも億劫だ。そうだ、ウェルテルが持ってきてくれたらいいのに。…俺も相当暑さにやられているみたいだなあ。いや、もしかしたら本当に持ってきてくれるかもしれないし、呼んでみようか。などと非現実じみたことを考えて、譲は飼い犬を呼んだ。
 「ウェルテル…ウェルテル。俺に水持ってきてよ。」
 声を出した瞬間、それすらも疲労につながって余計体が重くなってしまって、何となく後悔した。のし、と階段を慎重に上がってくる音が聞こえた。譲の部屋の扉を鼻で隙間から押し開けて、ウェルテルは気怠そうに寄ってくると、すとん、と譲の上半身の横に伏せて舌を暑そうに出した。ウェルテルという名前にしたのには、実は大した理由はない。親戚のもとで飼っている犬が子供を産んだというので母が一匹譲り受けて連れて帰ってきたのが五年前の夏の終わりかけだった。洋犬ということもあって、僕は父の書斎で見かけた本のタイトルから名付けたのだった。ウェルテルという名は何だか彼にしっくり来ていたし、見た目からしてもそれらしい。
 譲はその綺麗な毛並みの犬を撫でて、柔らかい毛で包まれたそのおでこに顔を埋めた。そして、すぅーと精一杯鼻から吸い込んで、柔らかい感触に目を瞑った。
 「お前、水を持って来いって言っただろう。」
 譲はゆっくりと起き上がってぼんやりとした頭をたたき起こした。しばらく窓の外をぼうっと眺めてから、重々しい足取りで下へと降りて行った。ウェルテルは変わらず床に伏せて眠っていた。譲が冷蔵庫の冷えた水を取り出してコップに注いで飲もうとしたとき、母が庭から戻ってきた。
 「譲、もう12時だよ。夏休みに入って早々からそんなんでいいの。」
 「まだ11時だし、夏休みが終わる前までにはちゃんと早く起きるようにするから。」
 母はやれやれといった様子で軽くため息をついた。
 「またそんなこと言って、あなた一度も早く起きてきたことないじゃない。せっかくまだ若いんだから外で遊んできなさい。」
 譲の母親は洗濯籠を脱衣所において、キッチンで譲の朝ごはんでもあり昼ごはんでもある肉そうめんを作り始めた。鍋にたっぷりの水を入れて火にかけると、彼女はそうめんを食品棚から探し始めた。
 「そういえば今日かな、親子が越してくるらしいよ、あの大きな家に。」
 「ああ、なんか窓から聞こえた。あの空き家、ずっと誰も買わなかったのに何でだろうね。あ、俺肉多めで。」
 母はフライパンにぶつ切りにした豚バラ肉を入れて豪快に炒め始めた。
 「うん、でも譲と同い年なんだって。休み明けから転校してくるのかな。」

 譲はふうんと頷く素振りをして、同時に頭の中では「でも、って今の会話のどこにも繋がらないから日本語的にはふさわしくない」などと考えながらリビングのソファに横たわった。皮のソファだからか、ひんやりとしていて気持ちが良い。譲の家の二つ隣にある空き家は、三階建ての大きな家だ。クリームホワイトの色をした家で、窓は白い枠で囲まれている。屋根は淡い紺色で、中央に玄関へ続く階段があるせいか、まるで西洋の建物を思わせる。庭はあるが、長年放置されていたこともあって雑草が伸び放題だった。そんな家に母親と息子の二人が越してくるなんて、一体どんな家庭なのだろう。譲は一瞬そんなことを考えて、すぐに視線をキッチンに向けた。
 「お母さん、何か手伝おうか。」
 母はそうめんをざるにあげて器に盛りつけようとしているところだった。
 「大丈夫、ありがとう。もう出来るからマットを敷いてお箸を出しておいて。お母さんのもね。」
 譲はすぐに起き上がり、キッチンのすぐそばの引き出しからそれぞれ箸とランチョンマットを取り出して食事の用意をする。母の座る椅子を引いてから自分の席に座って待っていると、母が盆に肉そうめんの載ったガラスの器を乗せて運んできた。鶏がらとごま油の香ばしいスープのにおいがダイニングに充満する。父はこの肉そうめんをよく作ってくれたものだった。夏の長期休みに出てくる昼食といえばこの肉そうめんが定番で、朝昼晩これでも良いくらい大好きだった。母は今でも僕がこれを好きだと思っているのだろう、父がいなくなってからもこうして夏休みに入ると頻繁に作ってくれる。
 「俺やっぱり毎日これでいいな。」
 「お母さんも。」
 いただきます、と手を合わせて譲はそうめんにたっぷりとスープを絡ませて肉と小葱と一緒に頬張った。
 「本当にこれ美味しいよね。冷たいのもちょうどいい。」
 ずるずると麵を啜ると、そばにタレが飛び散ってしまって、ティッシュで拭った。母は肉そうめんを啜りながら時折僕が食べているところを見て微笑む。毎回のことだが、僕は照れ臭くなって「こっち見ていないで食べなって。」なんて突っぱねてしまう。母はふふ、とまた少し微笑んで目尻に皺を寄せると、その視線はそうめんに戻された。母のその様は、幼き頃からずっと譲が欲しかったもので、常に自分を抱きしめてくれて守ってくれる、自分の全てを温めてくれるものだった。
 「毎日これだったら絶対に飽きる時が来るよ。」
 そういってまたそうめんを啜った母のすべてに、譲はどれだけ時が経っても変わらないものを感じていた。

つづく

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