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卑弥呼の東征   1   土方水月

 この物語は「日本」の成り立ちを描くドラマである。「日本」ができる前は「倭」であった。出雲から物部に移り、物部からヤマトに移る古代史を描く。ヤマトとは神武天皇から始まったとされるが、実は崇神天皇から始まったのであった。崇神天皇の后が宇佐の「ヒメ大神」であった。「ヒメ大神」は魏志倭人伝には「卑弥」として描かれた。「卑弥」は「ヒメ」であった。彼女は「ヒメ大神」として祀られるが、本当の名は豊の国の宇佐の「豊玉姫」であった。彼女は三世紀魏志倭人伝の時代に崇神天皇と共に東征を始めた。しかし道半ばに、崇神天皇は亡くなり、自分も安芸のタケリの宮で亡くなった。今は安芸の宮島に祀られる。


 第一話  ではニギハヤヒの妻とはだれか?


 卑弥呼は九州から ニニギの妻は「豊アタツヒメ」、「神アタツヒメ」とも呼ばれる。つまり「コノハナサクヤヒメ」であった。

 ニニギの妻は、ニギハヤヒの妻でもあった。ニニギはヤマトの歴史に出てくる名であるが、本当の歴史では「ニギハヤヒ」と呼ばれる。 ニニギは正しくは「アメニギシクニニギシホノニニギノミコト」という。「ホノニニギ」とは「万能」で「最強の将軍」という意味である。九州の日向の高千穂に降臨したといわれるが、どこから降臨したかは隠されている。高天原からではあるが。

 そして、ニギハヤヒは、正しくは「アマテラスクニテラスヒコホノアカリクシタマニギハヤヒノミコト」という。もうおわかりのように、彼が「アマテラス」であった。漢字で書けば「天照国照彦火明饒速日命」であり、出雲の「彦火明ヒコホアカリ」でもあり、九州の「饒速日ニギハヤヒ」でもあり、日向の「邇邇芸ニニギ」でもあった。

 一般には、「ニギハヤヒ」が兄で、「ニニギ」が弟といわれ、古事記では「海幸彦ホデリ火照」と「山幸彦ホオリ火折」の話にされる。 では、「ニギハヤヒの妻」とはだれか? 「ニギハヤヒの妻」は筑紫九州の宗像三女神のひとり「市杵島姫」であった。 「饒速日ニギハヤヒ」は出雲では「彦火明ヒコホアカリ」と呼ばれた。

 出雲のヒコホアカリの妻は、同じく宗像三女神のひとり「多岐都姫タギツヒメ」と出雲の王であった「大国主ヤチホコ」との子である「高照姫タカテルヒメ」であった。高照姫の母「多岐都姫」は宗像三女神の三女であった。宗像三女神は「田心姫・田霧姫(長女・奥津宮姫)」と「市寸島姫・市杵島姫(次女・中津宮姫)」と「多岐都姫・湍津姫(三女・辺津宮姫)」であり、多岐都姫は古事記では三女とされている。

 宗像は筑紫九州の北東の地で、西出雲の神門臣家の分家である「吾田片隅」の支配地であった。 ヒコホアカリが最初に高天原から降臨したのは出雲にであった。そして、一旦高天原に帰り、再度九州にニギハヤヒとして降臨した。どこかで聞いたような話ではあるが、二度天下ったのである。

 そして、ニニギの妻である「カムアタツヒメ」とは宗像の「神吾田津姫」であり、豊の「豊吾田津姫」でもあった。そして彼女は「木花咲夜姫コノハナサクヤヒメ」とも呼ばれた。「吾田片隅の娘」であったため、ヤマトの伝承では「吾田津姫」としたのであった。

 彼女には姉がいた。 「石長姫イワナガヒメ」である。美人ではなかった。そのため、妹の「コノハナサクヤヒメ」とともに嫁いだニニギから一晩で離縁されたといわれる。「イワナガヒメ」はそれから美人を憎むようになったといわれる。 「ニニギの妻」である「コノハナサクヤヒメ」は美人であった。その名は「木の花が咲いているような美人」という意味であった。彼女は「吾田片隅の姫アタツヒメ」であった。 一方、「ニギハヤヒの妻」は「市杵島姫イチキシマヒメ」であった。彼女は宗像三女神のひとりであった。彼女も「吾田片隅の姫アタツヒメ」であった。 つまり、「ニニギの妻」は「ニギハヤヒの妻」と同じ姫であった。

 宗像三女神とは西出雲王家である神門臣家の分家宗像家の「吾田片隅の娘」たちであった。長女が田心姫タゴリヒメ、次女が市寸島姫イチキシマヒメ、三女が多岐都姫タギツヒメという。それぞれ沖津宮姫、中津宮姫、辺津宮姫とも呼ばれた。三人ともが「吾田片隅の娘アタツヒメ」であった。 


卑弥呼はヤマトトトヒモモソヒメか?

 近年、箸墓古墳の墓誌が見つかった。それによると、198年か258年に亡くなっている。倭モモソヒメとある。倭は和であるが、九州の倭であった。倭国大乱は、ウマシマジによる一回目の東征の後であり、崇神・垂仁天皇による二回目の東征のまさにそのときであった。

 198年は魏志にいう「倭国大乱」のころ。話は合うがまだ二世紀であり、卑弥呼の時代より約半世紀古い。そしてこの時代はまだ出雲の人々がここにいたころ。ここは畿内の邪馬臺(やまと)であった。ここには最初の東征と言ってもよいかもしれない出雲族の東征があった。古志の八岐大蛇に攻められ貢物を行っていた出雲族は、スサノヲのおかげで古志を支配し、ヌナカワヒメを娶ることができた。九頭竜川の治水を行いヒスイを手に入れた。ヒスイは碧玉として東アジアで珍重された。ここでのみ得ることができるものであった。

 この東征はある意味最初の東征である。天孫族スサノヲであったアメノホアカリはその子五十猛と共に東征し、古志や摂津や邪馬臺を征服した。当時は日本海に面した古志はもともと摂津や邪馬臺よりも発展していた。大陸に近くヒスイを持っていた。

 アメノホアカリの子である五十猛は丹後の海部家となった。その子アメノムラクモは南下し邪馬臺に移った。これは最初の東征というよりも、まだ人があまりいなかった当時あった奈良湖のそばに移住したという表現が適当であった。第ゼロ次東征であった。

 日本の歴史は日本書紀や古事記からしか記録がないといわれるが、それより古い文献もある。日本書記は720年に、古事記は712年に編纂された。藤原氏によって。

 しかしそれよりも昔に編纂された歴史書はあった。藤原氏の前の時代、飛鳥時代とよく呼ばれるが、蘇我氏の時代であった。蘇我氏は「帝紀」をつくっていた。「帝皇日嗣」ともいわれる。

 そしてその前の三世紀にヤマト族が纏向にやってきた。その時にヤマトの歴史書もつくられた。また更に前には物部もやってきた。ニギハヤヒとされたり、あるいはウマシマジとも呼ばれるが、物部の歴史書もあった。

 さらにその前には、出雲の歴史書もあった。後に730年頃に編纂された「出雲の国風土記」には、記紀とは全く違う歴史がうまく差しさわりないように変えて書かれていた。実際の書は焚書されてしまったようであるが、原本が残っていた。他の風土記と違い完本が残っている。

 出雲の歴史が最も古いと考えられる。しかし今の天皇家の歴史は蘇我氏から始まるといってよい。蘇我氏は天皇家である。臣下のくせに天皇をないがしろにしたといわれるのは後の世に滅ぼされてからの事。悪いことは蘇我氏のせいにされた。

 蘇我氏は、天皇家であった。渡来系といれることが多いのは、滅ぼされた蘇我入鹿の代より前は、蝦夷、馬子、稲目、高麗、韓子、満智、石川と遡る。石川の前は“武内宿禰”であるが、本名はわからない。“武内宿禰”とは役職名のようなもので、世襲名である。その子孫は、蘇我氏以外にもたくさんいる。羽田氏、平群氏、葛城氏、巨勢氏、紀氏、若子氏などがある。高麗や韓子という朝鮮系の名がつくが、当時征服したい場所を子の名につけたといわれる。

 蘇我氏は“武内宿禰”から始まる。武内宿禰は成務天皇と双子であったといわれる。そのため天皇家と対等であった。臣下ではなかった。政體であった。そして、さらにその祖父は孝元天皇であり、ルーツは出雲である。直接の先祖はタカクラジであった。タカクラジはアメノムラクモの子であったが、紀伊に移り国造となった。出雲の国譲りのシーンではタケミカズチからアメノムラクモノツルギをもらい神武天皇に渡す役割を担った。

最も古いのは出雲

 神武天皇は初代天皇とされる。いなかったという人もいるが、神武天皇自身がいなかったわけではない。神武東征がなかった。もともといたから東征の必要はなかった。

 なぜなら、ものもと縄文時代の「日本列島」にはあまり人が住んではいなかった。当時は今よりも温暖で海岸線が多く農業には適さないが、漁業や林業は盛んであった。縄文海進と呼ばれ、今の大宰府は海で、玄界灘と有明海はつながっていた。今よりも温暖で、当時今の人が生きていたなら、“地球温暖化”で大変だといわれていたであろう。

 約5500年前の遺跡である三内丸山遺跡が青森県で見つかった。当時は狩猟時代で定住はなかったといわれていた定説が覆った。栗の大々的な栽培がおこなわれていた。その栗の巨木でビルのような大きい鍛造物が造られていたことも分かった。栗の木は固い。柱には最適であった。

 そのころ、暖かかったためもあると思われるが、もっと北にも人が多く住んでいたといわれる。今の北海道や樺太サハリンにもシベリアにも人がいた。マンモスも住んでいた。それほど暖かかった。

 そのころ、インダス川上流のインド北部で抗争があったらしい。今のパンジャーブ州あたりか?アーリア人の侵入であった。それにより、インドの先住民は東へのがれた。さらに侵入されたことにより、ガンジス川上流にも影響があった。そこにはクナト王国という国があったといわれる。インドのドラヴィダ人の国であった。出雲族はそこがルーツであるという。

 ドラヴィダ人とは、タミル語やテグル語などを含むドラヴィダ語族の言語を話す人をいう。西から侵入した人々から追われ、東へのがれた。しかし、アーリア人の侵入は3500年ほど前であった。クナト王国の人々は5500年前にはすでに日本列島に来ていたらしく時代は合わないが、その時代にも同様のことがあったとしても不思議はない。ドラヴィダ人は東や南に逃れた。南は人も敵も多かった。クナト王国の人々は北へ逃げたという。

 今のロシアのバイカル湖周辺にはブリヤート人が住んでいたといわれる。今は寒くて過酷な場所ではあるが、当時はもう少し住みやすかったのかもしれない。3万年ほど前からここには人が定住し、細石刃器を用いていた人々がいた。彼らに従いその周辺に移動したという。そしてさらに東へ進み、樺太サハリンから北海道に渡り、さらに青森に移動し、三内丸山遺跡をつくったという。


 つまり、最初の渡来人は出雲族であった。そしてその後に、最初の天孫族アメノホアカリがやって来たのであった。それはB.C.4世紀から3世紀といわれる。

  
卑弥呼とはだれだったのか?

 卑弥呼が誰であったのかを語るそのまえに、当時の日本の状況を簡単に示すと、縄文時代より前の旧石器時代には日本列島にはあまり人は住んでいなかった。アフリカで生まれた現生人類ホモサピエンスは数万年前に日本に到達したといわれるが、実際にはもっと前に日本には人がいたのかもしれないが、しかしそれはごく少数であった。その頃は氷期であり、ユーラシア大陸から日本には徒歩で渡れたという。象やカモシカも来ていたといわれる。化石が発見されているので確かであろう。

 そして、3万年ほど前には今のロシアのバイカル湖周辺から細石刃を使用する人たちが日本にやって来たという。青森に遺跡が見つかっている。その遺跡からは16,500年前の土器に米が付着していた。水稲が行われるようになった弥生時代よりもずっと前に、陸稲はもう栽培されていた。つまり、縄文時代とは狩猟だけの時代ではなかった。縄文土器の芸術性を見ただけでも、単純な狩猟生活者の創造物ではなかった。

 大陸ではまだ石器時代のころ、日本列島では縄文時代という土器時代であった。そして近年見つかった三内丸山遺跡では5,500年前に大規模な栗の栽培もおこなわれていた。その大木を使って建造された巨大施設がそこにあったことも分かっている。

 そこに、出雲族はいたという。出雲族はインド北部から北東に逃れ、ブリヤート人の集落を経由しながら、サハリンまたは北海道あたりに到達し、当時氷結していて渡れた津軽海峡を経て青森に到達したという。

 そこにしばらくいたが、寒冷化により南下したという。栗を栽培していたころは縄文海進の時代で、今よりもずっと暖かく、場所や説によって異なるが現在よりも数メートルから百数十メートルも海水面が高かったといわれる。そのため、九州でいえば福岡県の北の玄界灘から南の有明海まで海がつながっていたといわれる。

 氷期においても朝鮮半島はもともと少し離れていて、そこに海はあって海峡を形成していた。対馬海峡と言えるかどうかはわからないが、徒歩では渡れなかったといわれる。しかし、海峡は狭く、当然のことながら簡単に渡れたらしい。

 そこには海が多く、当然のことながら海岸線が長く、海産物は多く、食料は豊富であった。そして、縄文時代にはほとんど戦争がなかったといわれる。


 ちなみに、縄文時代の人はアイヌ人ではない。アイヌ人は10から12世紀頃に、北方からやってきた民族で、元居たオホーツク文化人を駆逐し、置き換わった“渡来人”であった。


 そこに、弥生人がやってきた。弥生時代とは、後に弥生式土器といわれるようになった土器が“弥生町”で見つかったからそう命名されたのであり、大規模な水稲と戦乱の時代であった。

 
 その時代こそが卑弥呼の時代である古墳時代につながる弥生時代であった。弥生時代の定義は変わってきてはいるが、稲の伝来でいえばかなり古い。水田の伝来でいえばB.C.5~4世紀頃であり、天孫族がやって来たのがB.C.4~3世紀といわれる。卑弥呼はもっと後の人であった。紀元後3世紀の人であった。

 ヤマトモモソヒメ(倭母母曾姫)はヤマトトトヒモモソヒメと呼ばれる。邪馬臺の第八代孝元天皇の娘であった。弟に大彦がいたといわれる。大彦は後にナガスネヒコとも呼ばれる仲曾大根彦であった。ヤマトモモソヒメは“倭母母曾姫”と書かれるが、このときもうすでに倭の東征は行われていた。ウマシマジによってであった。つまりウマシマジの東征が第一回目の〝神武東征”であった。そうして「邪馬臺母母曾姫」は「倭母母曾姫」に。彼女が魏志に言う“巫女”であった「卑弥呼」であった。そしてもうひとりの「卑弥呼」がいた。それは九州の宇佐にであった。

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